真実対意見?
ジャスト・エンパワー・ミーの記事より
真実対意見?
あなたの真実、私の真実。
本当?この真実という言葉をよく耳にしますが、本当に誤解され、誤用されているのではないでしょうか? 真実は一定です。最終的に、何が真実であるかについての議論はありません。議論されているのは、それに対する私たちの関係です。私たちは皆、あれやこれやについて真実を知っていると思っていますが、それは無数の事柄に依存しています : 私たちの経験、私たち自身の視点、人間の進化のどこにいるのか、私たちの周波数のレベル。 それはあなたの真実でも私の真実でもありません。真実が変わらないときはあり得ません。最も厳しい審査に耐えることができます。真実は独立して時の試練に耐えることができます。私たちの何人がそれを行うことができますか ?
ほとんどの人が言い間違えたときに伝えようとしていると思うのは、あなたの現実、私の現実、あなたの意見、私の意見です。私たちは、私たち自身のユニークな経験に基づいて、私たちの視点と結論に到達します。 私たちは、学んだことを信じて物事について意見を形成しました。しかし、これは本当ですか?かもしれませんが、そうではないかもしれません。
人類は今ほど分裂したことはなく、それは真実の誤解に基づいています。その結果、私たちは異なる現実に住んでいますが、異なる現実があるからといって、2 つの異なるバージョンの真実があるわけではありません。最終的に、真実には欲望が必要です。真実には、自分が知っていると思っていることを手放す意欲が必要です。真実には力、努力、そして勇気が必要です。恐怖に駆られていると感じているなら、真実を知らないことはほぼ保証できます。真実を知ることは簡単ではありません。常に高いレベルの波動を求め、共鳴させなければなりません。恐怖は非常に低い波動の感情です。実際、ほとんどの場合、ネガティブな感情の状態にある場合、真実を知る機会はほとんどありません. 通常、そのようには機能しません。
暗い部屋に足を踏み入れて明かりをつけると、今見たものを元に戻すことができますか ? 私はできません。これは、目覚めようとしている人や暗闇にとどまるために戦っている人々にとって大きな挑戦です。真実が彼らに押し付けられるので、彼らは怒っていて、恐れています。真実を受け入れる準備ができていないとき、あなたはしばしばメッセンジャーを避け、時にはメッセンジャーを憎む。 私たちの多くは、私たちがいる場所に行きたがらないため、人生で人々を失っています。先に言ったように、明かりをつけたときに暗闇に戻るという選択肢さえあるので、私たちはとどまることはできませんか?前に進むのは簡単ではないかもしれませんが、少なくとも私にとっては、戻ることは選択肢でさえありません。 数千年、場合によっては数百万年ぶりに、自由が手の届くところに来ました。気持ち良すぎるチェーンはもうありません。
PJZ
以上、ジャスト・エンパワー・ミーの記事より『真実』について紹介しました。
人は誰しも『真実』を求めていると思います。これは安らぎ、安寧、安心を求めるところから、それを希求する思考や行動が生ずるのではないかと思います。時と場合により、人それぞれに真実の捉え方は無数にあり、その真実の範疇がどれほどのものかによって事情が異なるのではないでしょうか?
私は大雑把には、『真実』は無数にあるのでは、と思っていますが、例えば、地球は丸いか?平らか?なら、地球は丸い球体なのが真実と思っています。この様な問いかけには、自分としては真実は一つという事に為るかと思います。本来、宇宙は無制限、無条件なら、そこからくる自由選択の権利と言うか意思からすれば、夫々の存在、魂の自由選択に委ねられるとすれば、人なら、人の数だけ選択の可能性があり、これが真の一つの真実に次第に収斂していくには様々な過程を経るだろうなと思います。人それぞれに真実と思って信じている事柄が在り、それを他から、あなたの言ってることは真実ではないとやってしまうと、その人は嘘を言っていると裁きかねないので、もっと大らかに捉えてもいいのではないかと思います。日本の古神道、随神の道(カンナガラの道)では、明るく楽しく、幸せなら、それでいいんじゃないの、と言ったおおらかさが在ったようです♪
この事については、今後も機会があるごとに追記していきたいと思います。