大阪時評③
「何度目の「はじまり」?」
棚からぼた餅とは正にこのことじゃないか、と最初はそう思った…2013年4月のオープンに向けて静かに、慌しく動き出している、ナレッジシアターと称される劇場のことである(http://www.kmo-jp.com/facilities/を参照)。しかし、劇場法成立の場合は大阪の中核的な劇場になることが想定され、また精華小劇場の閉館によってポスト精華としての役割まで付与されることとなったこの劇場は、私にとって突然天から降ってきたようなものであり、この思いがけなく廻って来たこの幸運とやらについて、まだいまいちリアリティを持って受け止めることが出来ていない。
私は都合5月に行われた1回目の報告会と、その後有志で1度開かれた意見交換会にひっそりと顔を出した。後個人的に幾人かの関係者とふとこのことについて話したり、情報を耳にする機会もあった。勿論全てを知るわけではないが、自主事業の提案や運営を行う企画委員と、芸術監督・プロデューサーの人事権を持ち、大阪大学や財界人によって構成された実行委員会に演劇界代表として送り込まれる実行委員を、いかにして推薦・選定していくのかという、大阪の演劇の未来を決めると言っても過言ではない駆引きがこの数ヶ月で静かに展開されていたりする。だが2011年7月の時点ではまだ、2回目の意見交換会以降の具体的な事態の推移については私の知るところではない。
ただ、私は素朴にこの劇場は一体誰が必要としているのだろうと思う。OMS・精華の閉館後大阪の小劇場演劇の衰退は確かに囁かれもしたが、実際今の大阪小劇場はそういった「拠点」無しに(いや、だからこそ?)各々が仲間達とタコツボの中で盛り上がることが出来(連載第1回参照)、実際そういった細分化された形で盛り上がることが可能となっている(決して盛り上がっていないということは無く、盛り上がっているところと盛り上がってないところが有るだけだ。まあ何を持って盛り上がっている/いないとするのかは難
しいところでは有る)。精華小劇場の閉館を自らの問題として受け止めた者もいれば、全く無関係な対岸の火事としか感じられなかった者もいるように。そして大阪の大半の観客もそして創り手も、きっとこの現状に対して特に不満は無い―これで、このままでよい、と感じている。しかし、私たちは唐突に現れ出たこの劇場を早急に私たちのものにしなければならなくなったのだ。
私が感じる違和感、またはこの劇場についてどこか引いた見方をしてしまう原因もそこにある―大阪という土地に今この劇場が必要な理由を積極的に見出すことが出来ないのだ。そうなると劇場に求めるものは結局自分達がそれを使えるのか・観たいものを観られるのか・完全スルーというレベルに留まることになる。そんな状況下でこの新たな拠点劇場が成立するのだろうか(そもそも統合のシンボルとしての一つの拠点劇場―つまり「みんなの劇場」自体が、細分化が進み観客も創り手もそこに安住することを選んだ大阪では不可能ではないかとも思うのだが・・)。暴論だが、このナレッジシアターはいささか早すぎるのかもしれない。この街の細分化といかに向き合い、舞台芸術それ自体の必要性をそして未来を、自ら生み出し粘り強く広く発信していけるのか?企業連合体まで絡むシビアな状況でそれが可能な人材の選定が望まれる。
(小劇場と京都をつなぐ、立ち止まるための観劇ガイドブック「とまる。」NO.14 2011年夏号 より)