「理解と了解」

極東退屈道場『タイムズ』
10/5(金)~10/7(日) @伊丹アイホール

 前作「サブウェイ」は第18回OMS戯曲賞大賞にも選出され、昨年の再演では佐藤佐吉演劇祭2011(東京・王子小劇場)において最優秀脚本・演出・衣装賞を受賞、このプロデュース・ユニットに対する評価を決定的なものにした。思えば2010年が初演だったこの作品は、東日本大震災以後の、「僕たちはばらばらになってしまった」もしくは「震災前から僕たちはばらばらだった、震災はそれを明らかにしただけ」(東浩紀)という感覚に対するバックラッシュとしての「故郷」回帰の感覚を見事に予見していたのかもしれない。都市生活者の点描が「映画監督」の(サブウェイと北島三郎の「まつり」にまつわる)デタラメな演説に何故か一挙に集約されていくようなあの感覚/恍惚・・・OMS戯曲賞選評での松田正隆氏の言葉を借りるなら、私はそれをデタラメであるが故に「理解」はしなかったが(ひとりの都市生活者の実感として)強く「了解」した。
 さて、この「タイムズ」においてもフェイクエンジェルズ(と名乗る女囚)達が帰巣本能のあるエコカーで帰宅するという本筋らしきものはあるようだが、コインパーキングを初めとしゲームセンター、コンビニ、つけ麺屋から宇宙の始まりに至るまで、停止した時間と金銭にまつわる複数のエピソードがそれを脱臼するように構成されていき、個々のシーンで現れては消えていく数々のタームは一種ペダンティックな戯れの響きさえ持ち始める。
それにしても、ゼビウスをしたことが無いどころかゲーセンに行くという文化も無くプロ野球にもさして興味があるわけでもなくポンセが何なのかもいまいちわからず、ラーメン屋に並ぶ趣味も無くそもそも車も免許すらも無い-そんなつまらない私という人間の中を、この作品に満ちている無数のことば・ダイアローグ・モノローグがただ長閑に通過し、そこに充てられた時間を確かに「消費」した感覚になったのは、私がそういった類の豊かさを偶然通過しなかったから、なのだろうか。大量のあらゆることばが俳優/観客の身体を通過せずにその表面を消費社会の速度よろしくただ全速力で滑走する・・・のかと思いきや、そうはならなかった、過ぎ去りし消費社会のむしろ幸福で退屈なまどろみの光景を遠くから観ている気分になったのは、この作品の主題の一つは「停止」であるからなのだろうか。
 だからこそ終盤の二つのダンスが主となるシーンは印象として非常に突出したものになっている。特に最後、激しい振り付けの中で俳優がそれぞれ一人ずつ「○○を待っています」と叫び、それを相対化/止揚するかの様に他の俳優が「ウッソーウソソー」と叫ぶ、その反復が延々と繰り返されるシーンは、こうして文字に起こしてみれば酷く単純だがやはり本作である意味一番雄弁であったように思うし、そこには「了解」の感触があった。
 この作品でのことばは結果、消費社会における記号との戯れとしての非身体的なことばであったように思う。戯曲読解では無く俳優の肉体を通して立ち上がった作品を鑑賞する上での「了解」とは、論理的なものというよりは身体を通した俳優と観客の共振に近いものなのかもしれない。(6日観劇)

(京都芸術センター通信 明倫art vol.151 2012年12月号 より)


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