「『本気』とベタ」

がっかりアバター『あくまのとなり。』
5/15(木)~5/19(月) @シアトリカル應典院

 この作品に限らず、歴史は繰り返すだとか、物事は変われば変わるほど同じものであるとか、何を語るかではなく如何に語るかだという言葉すらも使い古された言い回しだと承知していても、ここまで一昔前の既視感に溢れた物語/ディティールを堂々と差し出すこの作品の手つきはきっと戦略的な「あえて」に違いないと勝手に信じ込み、メタレイヤーのツッコミがいつ入るのか懐かしさの中で淡々と静観を続けていたら最後までド直球のストレートであった(と、どうしても感じてしまう)ことに決して悪い意味ではなくしばし唖然とした…のだけれど、そもそもこの作品においてそういう気分を味わったのは何故なのかぼんやりと考えてみる。
 まず、作中に出てくる細かなディティール-名画座、「小さな恋のメロディ」、「俺たちに明日はない」、iPodから流れる「風をあつめて」など-の奇妙なアナクロさ加減であったり、冒頭約30分程続く主人公の少女の「夢」に登場するファニーな動物たちが、凡庸ともいえる悲劇的展開の本筋(怪しげなカルト宗教にハマった主人公の少女の家族は母親が家を出て行ったことで既に崩壊状態であり、宗教団体の提供する怪しげな食品やパウダーに金銭を使い込んでいる。父は無職で碌な収入も無いため姉の風俗の稼ぎで辛うじてやり繰りしていたがとうとうそれも破綻し、肩代わりとしての自身の臓器売買を拒否した父の保身のためにあくまで返済の延期を条件に主人公は宗教団体の男の慰み物にされる…等々)に主人公を救うため「夢」の世界から唐突に介入するものの、一切の抵抗或いはツッコミすら殆ど許されず飲み込まれていく、というそのコテコテのメロドラマ感がその脱力感極まりないカンパニー名の今っぽさからはかけ離れたもののように感じられたから、言い換えれば創り手にとって本作はベタなのかネタにするのかメタに転じるのか、その既視感故に最初から最後まで判断が付きにくかったから…と言葉にしてみたものの、筋肉少女帯やみうらじゅんなどのいわばカジュアル化以前/インターネット以前の古きよき(?)サブカルが作・演出家の文化的リソースである(らしい)以上、彼らにとってこの作品は力技の「本気」(ベタ)以外の何物でもないのだろう。
 ただ身も蓋も無い言い方ではあるが作品以上に寧ろ、この作品は2014年の大阪で如何にして約500名強とも言われる観客を結果動員し、観客はこの作品に何を見出し何に惹きつけられ何に「感動」したのかに興味がある。岡崎京子に言わせれば、「みんな何でもどんどん忘れてゆき ただ欲望だけが変わらずあり、そこを通り過ぎる名前だけが変わってい」く、ということか?(19日観劇)

(京都芸術センター通信 明倫art vol.170 2014年7月号 より)


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