WINGCUP2020総評
■ 劇的☆爽怪人間
一見するにカンパニーの方向性として、シンプルに楽しんで観られるような、エンターテインメント性の高い表現を目指しているのだろうと思うのですが、全体としてリアリティ、フィクション、シリアス、コメディー等々の塩梅にもっと計算が必要だと思いました。意図せざる形で結果中途半端なものになっている印象です。ロケットを飛ばす、というお話の展開も予定調和の域を出ず、俳優の熱量や作品に対する思いは伝わるのですが、全体として振り切れることない既視感と意図せざる凡庸がありました。様々な要素を詰め込みたいという姿勢はわかるのですが、演劇という形式の中で、最も表現したいこと、見せたいものは何で、そのために何を捨てて何を取り何をより強調するのか、もっと吟味出来るのではないか、もっと吟味することで見えてくるものがあるのではないか、と思います。今一度、自分たちがやっていること、やっていきたいことを数多の演劇作品、あらゆる表現形式と比較し冷静に見つめなおしてみることもよいことなのではないかと思います。
■ 猟奇的ピンク
観ている間、何か違和感を拭い切れなかったのは、単純に作家が男性であるという情報を前提に観たことに起因しているのかもしれない。その殆どが女性であるこの作品の登場人物たちは、自身のことを本当にあけすけによく語ってくる。AV女優、援交、アイドル、「せっかく女の子に生まれたから、私というコンテンツでお金を稼ぎたい。性を存分に使いたい」などと、今私の目の前で語っているのは誰なのだろう。どうせ女の子に生まれたんだからかわいくなりたい、という宣言、男性からの性被害にあう話、世界を女と少年で満たしてください、と、こちらに語ってくるのは本当は誰なのだろう。もちろん、男性は女性を描いてはいけないという話では全く無い。或いは女性を描けていない、という類の話でもない。
この作品には、(私にとっては)かつての援交少女たちや一時期の岡崎京子などを連想させる、いわゆる「私は自身の女性性をもってして資本主義社会の中で消費されることで自己実現しようとしています」、という類のテクストや、消費社会を流通する記号・情報と戯れるようなテクストが、表層をアップデートされ召喚されている印象を受ける。ただかつてのそれらは恐らく、彼女たちが自身の女性性と引き換えに手にした自由意思によって血みどろでつかみ取られた、女性性に強く紐づいたものではなかったか。一方この作品では、そのような既視感の強いテクストをこともなげに創り出しているように見えるのが(恐らくヘテロの)男性である不一致に、私はどうしても戸惑ってしまうのである。それは、ドキュメントタッチのインタビュー/モノローグの形式がこの作品の尺の半分くらいを占めているから、だろうか。そこにいる女性の「わたし」自身が語っているように見えながら/見せながら、語っている/語らせている「わたし」はそこにいない男性だということ。その退屈さは、登場人物中唯一の男性であるライターの男がパートナーの女性(ちなみにこの女性については、他の審査員の方からの指摘にもあったが、確かに他と比較して描かれなさすぎると思う。登場人物の中で、一見最も「普通」に見える彼女をもっと描くこと、彼女にも語らせることが、この作品により厚みをもたらすはずである)にプロポーズするラストシーンに現れている。一見男性のいない世界を夢想するようなラディカルな作品でありながら、保守的な普通の結婚とそれによる幸福が最終的には称揚されているように見える。
(とはいえ秀逸なシーンもいくつかある。アイドルとそのオタクの女子高生のエピソードは、もっと書き込んでスピンオフ出来うるほど作家の「実感」が感じられた。また個人的に胸に迫ったのは女性の一人が部屋でスマホを見ながら一人でカップ焼きそばを食べて泣くシーン、だった)
■ 演劇創造ユニットフキョウワ
まずは舞台美術が美しい。ビジュアルの端正さでは今回のコンペで随一ではないだろうか。内容については既視感というか、明確に90年代の香りがする。これは実際の時間軸としての90年代のことを描いているのだろうか、と思うくらいに。作中にもそれを想起させる要素がいくつも出てくる。「透明な存在」、いらなくなった子、カルト臭のする宗教サークル、またはなんとなく漂う野島伸司っぽさ(夜の街を彷徨う少女、誰の子かわからない子を妊娠…など)、もろにアダルトチルドレンな主人公たち、など…。
この作品に満ちており、作品の時間を駆動していく「不幸」や閉塞感は、この私とそのごく身近な周辺に起因するこの私(主人公の女および小説を書いている男)の心理がもたらすものであり、極めて心理主義的である。そして90年代は、埼玉連続幼女誘拐殺人事件、付属池田小事件、神戸連続児童殺傷事件、阪神大震災、オウム真理教事件に代表されるような数々の事件や、サイコ・サスペンスドラマ、新世紀エヴァンゲリオン(TV版・旧劇)、心理テスト・心理ゲームの流行の中で、「心理」を考えることが一般的に浸透した時代だったと言われる。だから、90年代は私たちが主にまだ自身の心理とだけ闘っていればよく、まだ戦場が平坦という認識だったある意味平和な時代だったのかもしれない、と思わせるものがこの作品にはある。ただ流行は20年周期だとはいうけれど、それが意図的なものだったとしてなぜ今ここで90年代的なるものが召喚されるのか、もう少し説得力が欲しいところであったというか。
だからだろうか、というかその必然としてこの作品には、いや、この作品の登場人物にとって、社会は存在しないように見える。登場人物は社会に助けを求めることをしない。そして唯一外部を、社会を体現しうる人物であるのかもしれないあの編集者であり医師でもある男も、結果的に事態を傍観するのみであり、本当に小説を書いている男を何とかしようとする気はあるのだろうか、作者はこの男に永遠に病んでいてほしいと思っているのではないだろうか、と思うほどである。そして、記憶の混濁や解離性障害の気があるらしい男は、女を自身の小説の主人公にし舞台に上げ、母を刺し復讐する小説を書くことで病を回復しようとしている(それは何百回も繰り返されているらしい)ようにどうしても見えるのだが、私には、それは男が自身としてではなく、小説の主人公としての女を使い、代わりに復讐させようとする構図ーつまり代理戦争として女性同士を傷つけさせる構図ーに感じられてしまったというのは勘ぐりすぎだろうか(また、母と息子の関係(こじれ)と母と娘の関係(こじれ)は入れ替え可能なものとできるほど対称なのだろうか、とも思うのだが)。「何者かになりたい」というあなたはあなたでしかなく、誰が言ったか自分探しとは今ここにある自分から目を逸らすための方便に過ぎず、そのケリは自分自身でつけなければならないと自戒を込めて思う。最後の台詞のように、僕じゃない私を書く、つまり他者でもある私を書くことが私を救うのだということは明らかではないだろうか。
■ シイナナ
基本的に自死の理由というものはその自身にしかわからないもので、残された人々は勝手に推測することしかできない。人および人の死について他の誰かが物語に、作品なるものにしようとするとき、そこには物語化の暴力が多かれ少なかれ発生し、それはカメラを被写体に向ける写真家の、カメラの暴力性に似ていると思う。だから写真家の男は、カメラを構え、亡くなった従兄弟の幻影に笑わないのなら消えてくれ、と叫ぶのだ(都合のいい物語化に幻影は抵抗した)。この作品は祖母の世話をするヤングケアラーの従兄弟の死とその理由について安易に物語にするのでもなく、わからないまま残された人々の戸惑いの方をわからないまま描こうとしている。残された人々についてはもう少し書き込める余地があるのではないかとは思うが、そこに誠実さがある。作品全体のテイストとしては、リアリズムを追求する方にいくのでもなく、幾分の抽象性、ファンタジックさ、美しい音楽がちりばめられていることで、砂糖菓子のように食べやすく柔らかく優しい感触の物語になっているのだが、この作品はそれを選んだことで、この作品で扱っている現実に起こっている問題について、観ている私たちに強くつき返すようなものではない(そもそもそういった意図は無いのだとしても)。ただ、(だからこそ?)その中で従兄弟が祖母を入浴させるシーンなど、現実の介護の情景が具体的に垣間見えるシーンはとても印象に残る。他の審査員の方の講評でもあったが、例えばこういったシーンだけで構成したとしても十分に観せる力がある。それ故にこの作品は、自身を包んでいるオブラートを突き破って、もっとこちらに働きかけてくるポテンシャルも持ち合わせているようにも思う。
■ 劇団片羽蝶
これもまた実に心理主義的な作品である。他人に求められることを幸福と感じ、厳しい親の元で優等生たることを自らに強いた生き方しか出来ず仕事に疲弊し、精神病院に入院する主人公の女性は、これもまた典型的なアダルトチルドレンではないだろうか。主人公にとって社会は存在するのだが、戻りたくない場所、明確な拒絶の対象として語られる。一方彼女の治療にあたる病院の医者と看護師の方も、共通の友人の自死に苦しんでいる。ただこの作品がどこか晴れやかな印象なのは、病院内の丘でカメラを持つ少年と時を超え出会うことで解放されていく主人公も、医者と看護師も、再生への意思を持ち、それが果たされていく、ように見えるからだろうか。また終始淡々としたテンポは、狙った効果ではないと思われるのだが、セラピーの過程を観ているよう。舞台は大変簡素、悪く言えば工夫が一切ないほぼ素舞台。素舞台は演出と俳優の力でどこにでもなりうるのだが、この作品では素舞台を素舞台として使っているわけでもなく、風景も見えずらかった。
■ ヨルノサンポ団
約30分のなんてことは無い平凡な保険会社員の等身大の日常と、ちょっとした妄想のスケッチと片付けてしまうのは容易いのだが、(明確にそれが示されることは全くないものの)見進めていくうちにステイホームする単身生活者の心象風景にも見えてくるのだった(収録された映像配信のみでの観劇だったから、というのもあるのかもしれないが)。なんでも食べ尽くすamazonの箱に入った怪物?を拾ったせいで、男は初めて風邪を引いたとウソをついて会社をずる休みしステイホームする。昨年の私たちのようにちゃんとステイホームする。もちろんエッセンシャルワーカーの方々は除いて昨年の緊急事態宣言期間をある意味ささやかなずる休みの時間と感じた人々もいたのかもしれない、と思わせる何かがある。しかし、ずる休みの時間ー資本主義の減速の時間ーは長くは続かない。同居する口だけの怪物は本当に巨大になり、それが食べ尽くすのは人間もしかりなのであるということ。さらっと流し見も出来るが、この状況下ではささやかな引っ掛かりを残す小品。