「苦い旅」
努力クラブ『旅行者感覚の欠落』
12/7(金)~12/10(月) @元・立誠小学校 音楽室
第18回劇作家協会新人戯曲賞の第一次選考に残った前作は未見だが、この奇妙な名称の劇団は気になる存在だった。よほど「努力」とは縁遠い・出来ない人たちなんだろう、と勝手に思っていたら結成メンバーの共通項が大の努力嫌いであることがその由来らしい。確かにまず目に飛び込んできた舞台装置の飾らなさ、というかテキトーさはそれを裏付けるものだった。むき出しの平台はまあよくあるとして、はけ口にもなっている中央暗幕の張り方の杜撰さは何なのだろうか。素人でも頑張ればもう少し綺麗に張れる。本編が始まったら、俳優の衣装がことごとく平均的な-どちらかといえば不可寄りの可のセンスでまとめられていること(!)が気になってくる。もしかしたら彼らは劇場入りの朝にたまたま手に取った私服そのままでこの舞台上にいるのかもしれないし、次第に初めて見るはずの彼らの「顔」がどこか見覚えのあるものに見えてくる始末。電車で繁華街で職場で道端で、私は彼らにすれ違ったことがあるのかもしれない。一種の親密さではなくどこにでもいる人々としての匿名性を帯びた俳優たち(を目の当たりにするということは、結果観客にとっても旅行者感覚の欠落=どこに行っても同じという感覚がもたらされるのではないか)…「あー、貧しい演劇ってこういうのかもしれない」というのが率直な第一印象だ。
大筋を乱暴にまとめてみると、主人公の男が「人見世」という大勢の観客の前でその「人を見せる」アンダーグラウンドな興行に魅了されていく様を馬鹿丁寧に描いていく。人見世には様々な種類があるようだが、単なる1発芸のようなものや、ぐだぐだのシュールなコントじみたものが大半のようだ。しかし主人公が一番惹きつけられるのは全くの素人をそのまま舞台上に上げ、ドキュメンタリー的とも称される芸能社の芸風である。彼は初めて観たその芸能社の人見世で、何も知らずに連れて来られた舞台上の女性の「あまりの無害さ」に釘付けになるがそれ以降は他の「何を見ても不満足」にしか感じなくなり人見世に「飽き始める」。物語の終盤、主人公は人見世の舞台上に立つ「無害な(=可愛い)」彼女と再会するが、観客に向かって礼をした行為により(人見世自体を含め)完全に興味を失う。
図式的・短絡的ではあるが、その「人見世」を「小劇場演劇」と等号で結ぶ(という邪推を始めた)時に本作が単なるナンセンスコントや不条理劇の類から少し外れたものに見えてくる。全くの素人を舞台上に上げる非作為的なその芸能社のスタイルをドキュメンタリー/ポストドラマ的と称される演劇の隆盛と、そして主人公がその芸能社以外の人見世に「飽きてくる」様をそのような状況下においてなおも生産され続けるドラマ演劇に対する違和と単純な興味の喪失の隠喩と捉えることが出来ないだろうか。しかしその場合この物語が提示するのは、小劇場演劇文化に対する皮肉めいた違和を、意図的に粗悪な呈をした小劇場演劇という形式でもって表出するという自己言及/自虐的な倒錯の果てに、そこで唯一の魅力的な対象として描かれる非作為性/ドキュメンタリズムですら一瞬の煌きでしかないという諦観であり、そこに残るのは受け手と創り手双方の「どこにも行けない」勝手な苦い断念だ。もう一つ邪推で押し切ると、消費者の欲望がエスカレートすると無害な非作為性を求めだす構造において、人見世=日本の大衆文化・芸能と置換することも出来る…かもしれない。(9日観劇)
(京都芸術センター通信 明倫art vol.153 2013年2月号 より)