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WINGCUP2022総評

よるべ「深呼吸」

 作品は5人の登場人物/二人芝居の連鎖で構成される。水槽がいくつか置かれている横長に設えられた舞台には中学卒業記念にタトゥーを入れにきた前田と木島の二人がいる。一方その前田と高校の友人で大学生になっても付き合いが続いている鈴木がスコップで穴を掘っている。その傍らには、鈴木とのちに大学を中退する前田が出入りするバーの店長であり、イリーガルなことに手を染めている年長者として描かれる神保という男がいる。転勤族で引っ越しが多かったという木島は、電話の素晴らしさおよび電話そのものを人がつくろうとした動機と水族館というものの「距離」が孕む寂しさについて前田と話すのだがその約3年後、大学生の時に木島は校舎から飛び降りたことが示され、それは前田に「水族館に行っておけばよかった」という後悔と実存への強い不安をもたらす。その後いつしか前田は、鈴木と高校と予備校で同じクラスだった同じ大学の上地と交際し始める。前田は自身が泳げないにもかかわらず上地を海へ誘う一方、鈴木には自分は上地と別れて海辺へ引っ越そうと考えていることを告げるが、その後、前田は川に頭から突っ込んだかたちで溺死したらしいことが(自死か他殺かは曖昧なまま)神保によって示される。一方大学の裏山の麓にある電話ボックスには、そこにかけて出た相手と話すことでかけた人間の願いが叶う/悩みを相談でき解決できるらしいという都市伝説めいたものがあり、上地と死後の木島(と思しき人物)はその「風の電話」を彷彿とさせる電話ボックスを通して交信を行う。作品は上地と死後の木島(と思しき人物)が、互いの間に横たわる生と死という境界を越え再会する意思確認の問いかけののち、神保の元から放逐されたと思わしき鈴木が唐突にかかってきた宛先不明の公衆電話の受話器を取るところで幕を下ろす。
 まず本作は「会話」の、台詞のサブテクストを丁寧に包み隠し時に匂わせていく迂回の手つきの独特さにおいて群を抜いている。かつ二人芝居の連鎖で進行していく会話の流れは一定のタイム感で実に淀みなく、破綻なく流れているかのように感じられるが故に一見コミュニケーションは成立しているように感じられるのだが、作中における人物間のあらゆる関係性は良くない終わり方をしてしまっている。印象として彼らは決して上辺だけの会話をしているわけでもない、ただ会話の中で約束事が積み重ねられていくということも、相手の発言をうけて変化する・影響を与え合うといったことも――三木那由他の定義による「コミュニケーション」も「マニピュレーション」も――あまり起こらず、シーンが変われど進めど彼らの関係は毎度リセットされむしろ淀みない流れの中でじりじりと衰退に向かってさえいるのでないかと思わせるものがある。「思うということは一方的、相手が受け取るかは別」「話したいだけだから聞いてくれなくてOK」「聞いてくれてるか気になったら話もできなくなる」「予想して予測して見ないようにするのがよかったんだろうな」という台詞が端的に象徴するように、神保以外の彼らにはどこか、相手の発言が自分に何かをもたらすこと、または相手がこちらの発信を正確に受け取ることや正確に伝わることについての(祈りや願いはあるものの)諦観があり、それは作品の通奏低音として響いている。そしてこうした諦観の常態化=「普通」という水槽の中で前田のみならず「どうやって生きていこうかと」もがく登場人物たちの中で神保だけは、前田いわく「店長みたいにはなれない」ほどに「幸せそう」であり、前田や鈴木を「普通」「キモイ」と判定する審級にいる、ある種の法外=水槽の外にいる無敵の人といえる。それは裏を返せば法外=水槽の外に出ない限りは幸せになれず、しかし水槽を出て海へ行こうとしても法外の存在になるのは困難であり、前田のように溺れ死ぬしかないということが示されているのではないだろうか(水槽を出て、ある種の水槽とはいえ疑似的な海としての水族館へ行こうと約束した木島が飛び降りたのも同様のことかと思われる)。
 法外の人あるいは死者にでもならない限り私たちは諦観=普通の中でコミュニケーション(とマニピュレーション)の不可能性に耐え続けるしかないのではないか、というこの作品の断念は、知識人や有識者すらSNSという公衆の面前で各々の仲間たちを集めて自陣の主張を強化し続けるだけのレスバを繰り広げるという光景が露わになっている今、実感として了解できなくもない。「置き配」についての福尾匠の指摘を借りると、今『SNSの炎上で起こっているのは、互いの陣営が相手に何かを伝えるためになされる論争ではなく、それぞれが言った/言われたという——それぞれ異なる——事実を自陣に向けてアピールし持ち帰るということです。(略)配達は届けることではなく置くことになり、何か言うことは伝えることではなく言わば「言っておく」ことになった』ということ。そしてこの作品の登場人物たちも互いに、裏山の麓の電話ボックスに、伝えるのではなくまたは伝わることを期待せず、ただ「言っておく」。しかし彼らは言った/言われたという事実を持ち帰ってアピールすることはない、祈りや願いはあれど「話したいだけだから聞いてくれなくてOK」なのだから。よって本作は「言ってお」かれた孤独なつぶやきの連鎖として会話劇であり、現在のコミュニケーション環境についての一つの報告でもあるのかもしれない。優秀賞おめでとうございます。
(ただ他の審査員の方々の指摘のように、形式上の反復が効果的に機能しきれていない点、それ故か端的に時間の進行とともに単調さが感じられてくることが気になるところではあり、そこが最優秀賞と優秀賞の僅かな差だったのかもしれません。)

ポケット企画「おきて」

 ある兄弟と兄の娘(うき)は車で父の葬儀に向かっている。車の後ろに眠っているうきにはなぜか、母(うきにとっては祖母)に姿を変えて在りし日の若き祖父と出会ったりともにダンスをしたりなど、未来や過去にタイムスリップすることができる不思議な力があるようだ。並行してある女性ダンサーの時間が進行する。インタビュー取材の前に自分の持っている生徒たちから、発表公演が迫っているタイミングにもかかわらず就職するためダンスを辞めると告げられ、ダンスについて「どうしたらいいかわからなくなってきた」という戸惑いと疲れの中、かつては賑わっていたが過疎地になったらしい故郷の町に戻ってきた様子の彼女は、親戚のともちゃんとミカンを食べながら言葉少なに静かな時間を過ごす。その後のうきとその女性ダンサー=大人のうきであることが決定的となる二人の対話のシーンで、大人のうきは「たのしいならいいんじゃない」かと子どものうきからダンスを続けることを肯定されたのち、大人のうきの主催するらしき教室で登場人物全員が一堂に会し、ストレッチなどに励むシーンで幕は下りる。
 シンプルに台詞を紡いで単線的に物語るのではなく、説明や具体性を削いだ台詞にドキュメントっぽいシーンも混ぜ込み身体表現も取り入れ、若手と思えないほど様々な手札のクオリティが見せ物として出来上がっている印象の一方、やれること・やりたいことを全て詰め込んでみたとりとめのなさがあり、一見捉えにくく観客の能動性を必要とする印象の作品だが、「ヨロコビ」という主題含めてらいのないまっすぐでまじめな曇りのない作品であり、大人と子どものうきを主軸とした、タイムスリップして大人になった自分に会う/子どもの自分に会うことで自身および自身の活動を肯定されるお話としてフォーカスを定めてみると実は至極シンプルであるといえるし、率直に言うとお話としても台詞としてもとりたてて珍しいものではない(個人的に興味深かったのは、ある物語をシンプルに語ることを重視しているように感じられない語り口であり、とはいえパフォーマー自身の現前性の方を重視しているのかと思えど、パフォーマーがシーンの中で「在る」というよりはベタに「しっかり演る」「しっかり見せる」ことの方を重視した状態でそこに居るというある種の違和があることで、これがベストな形なのかはわかりかねるのですが結果的に独特な質感の作品になっていると感じられた点でした)。
 ただこの作品には、亡くなった父がよく言っていたという「人は死なない」ということばを軸に、他にも「ここにいていないことになっている」という台詞であったり、生者も死者も、存在した時間空間が異なる人々も一堂に会することで、それら全ては緩やかにつながっているのかもしれないことを示しているだろう最後の教室のシーンであったり、生と死を対立するものとしてではなく連続性としての「ヨロコビ」と捉え肯定しようという作り手の強い意思が感じられる。それは小さなうきが祖父と踊ったダンス――つまり祖父から渡されたダンスというバトンを成長しても続けていくという継承への意思とも言い換えることができるのかもしれない。それはあからさまに明示されることはないが、音楽の力を借りた祝祭的な朝のイメージの中に、どこかカジュアルで健康的なスピリチュアリティのようなものとして浮かび上がってくる。たまたまなのかコロナ禍の残響なのか特に生と死をキツめの強い筆致で描くものが多かった印象がある今回の参加作品の中で、唯一この作品だけが生と死について肯定的な輝きを放っていたのは確かであり、そこがこの世相の中で支持を集めた点なのかもしれません。最優秀賞おめでとうございます。

NEW FACE「FAKE BLUE」

 あおいとみどりという幼馴染とおぼしき二人の少女がゲームをしているところから物語は始まる。あおいは父親と離婚しノヴァ様という唯一神を祀り怪しげな水を配り歩くような新興宗教に入信しているらしい母親と二人で暮らしており、母いわくその宗教が唱えるカタストロフィーなるものから生き残るため、そして母がなれなかった医師に自身がなることを強いられているため5年も医学部浪人を続けており友人もろくにいないが、かつて娘を病気で失い職を転々としているしずかとバイト先で出会い友人となり、またしずかの友人らしい河川敷で暮らしているホームレスのような男も交えてよい関係が築かれていく一方、母との関係や生きる意味に苦しむあおいにみどりは母親をモンスターに見立てハサミを渡し、モンスターを倒せとそそのかした結果、あおいは母親を刺してしまう。あおいと引っ越しを決めたしずかが再開を約束する面会室のシーンのあと、河川敷で暮らしているホームレスのような男は実はこの世界の神で、かつ母が信じていた怪しげな宗教の信仰の対象(ノヴァ様)であり、一見イマジナリーフレンドのようでもあったみどりは天使的な存在であることが唐突に明かされる。
 俳優陣の奮闘が胸に迫る不幸の連続で救いのない話ですが、どうやら実際の事件(滋賀医科大学生母親殺害事件でしょうか)がベースになっているようでもあります。審査会等において指摘もあったところですが、曲がりなりにも懸命に積み上げてきた等身大の世界観から急に飛躍し、神が存在する世界観のレイヤーがラストシーンで突如現れるのは戸惑うところでもありますし、放り出したような印象も若干あります。神が実体を持って存在し、かつ例の怪しげな宗教の信仰の対象でもあるというのは結構ショッキングです(人間を導くのが神の仕事だと言うなら、神はまず母親のような人間を生み出している劇中のような宗教が自分を崇めていることを何とかしなければいけないのではとも…)。まずはこの作品で省かれている「社会」のレイヤーも意識し地に足をつけて「事件もの」としてもっと書き込めるのではないかとも思いますが、個人的にはどうせ神様を出すのならあの地点で終わるのがもったいないとも感じます。あおいとしずかのこれからに加えて、新たに加えられた神の存在するレイヤーと人間と宗教がどう関わるのかというところに生まれるドラマもあるのかもしれません。今、神と宗教を扱うことは特にセンシティブなことで、また実際に出すとなるとそのことについてもっと思考しないといけないことが想像できるのですが、そこまで書ききることができたならまた違った可能性のある作品になったのではないでしょうか。

劇的☆爽怪人間「天使は毘沙門天に射貫かれる」

 長らく入院していた母が亡くなり、教師を休職して看病していたらしい主人公もんじろうと3年前から引きこもっている弟・コータと父が住む家には、暗号資産や仮想通貨のような怪しいビジネスで生計を立てているキムやその下で働いているらしい土方の友人やっしゃん、高校の時から付き合っていたが自分の浮気が原因で別れたものの超積極的にもんじろうに結婚を迫る元カノのさななど、様々な人々が母の仏壇に線香を上げに訪れる(ちなみに死んだ母も箪笥から時折ハイテンションに現れもんじろうをマッチョに叱咤する)。キムの誘いに乗るようにようやく自室を出てキムの下で仕事も始めた弟は酒と兄の挑発をきっかけに、もんじろうに相手にされない鬱憤を募らせたさなと付き合い始める。激怒したもんじろうは縋るさなを拒絶、続いて現れたやっしゃんからの投資の誘いに半ばやけくそのように大金を出す。自分を抑圧してきた兄に対する怒りが爆発した弟は、昔ともによく遊んだゲーム機で兄を撲殺しようとし乱闘になだれ込む…
 さて見事にイルギさんによるイルギさんのための演劇となっていて、企画Fight Of Irugiの看板に全く偽りはありません(これは嫌味でもなんでもなくここまで臆面もなくナルシシズムを全開にできるのは素晴らしい、全くのナルシシズム無しでは俳優どころか、人は生きていくのも難しいでしょうから)。それにしても本当に肉体的にも精神的にもマッチョな主人公です。さらに彼がとにかく強い完璧な男だということがこれでもかと周りによって補完する形で冒頭から説明されていきます。男女の平等がここまで叫ばれ「有害な男性性」などと言われるように従来の男らしさや男性性がこれほど疑われている時代にこれを本気で作っているとしたら深い意図や思想があるんじゃ…と勘繰らせるものがありますし、このままで最後まで突っ走るのか、どこかでツッコミを入れるのかポリコレ補正をかけるのかどきどきしながら見守る、という独特のスリリングな体験だったのは確かです。他の登場人物もキャラクターの表象が一昔前のステレオタイプ、昭和の少年マンガのようで、そこがこの作品がギャグなのか本気なのか何なのか判別付きづらいものにしている点かもしれません。
 特にその中で引きこもりの弟というのは、主人公の体現するベタな強さの対極で、母を一方的に嫌っていたという点で母の強い影響下にある主人公とは異なる価値観を提示できる存在として注視していたのですが、俳優の熱演はともかく結局こちらもステレオタイプな引きこもりの表象に留まっているのがちょっと残念です(しかしながら終盤兄どころかこの家をも破壊せんとする弟の姿には言いようのないカタルシスを覚えます。確かに彼からすれば、この家も何もかもぶち壊したいと思うのは当然でしょう)。強い男の遺伝子が欲しいとしきりに主人公に猛アプローチする元カノの表象の仕方も同様でしょう。
 総じていろんな苦難やダメ人間が寄ってきて大変だ、そしてそれを乗り越えていく主人公という図式なのですがそれは逆で、主人公のマッチョさがそれらを引き寄せているのかもしれません。しかしそのマッチョさは時折現れては叱咤してくる母親との関係の中で作り上げられてきたものであり、主人公は自分を肯定してくれる母性に依存し、死んでいるにも関わらず支配下にあります(宇野常寛言うところの「母性のディストピア」的なるものの典型かもしれません)。だからこそ結果的にラスト、再び現れた母の労いのことばに逆らうように暴れる主人公が一転して母(の亡霊)を刺し殺す壮絶な展開、いわば共同してマッチョを作り上げた母及び一種の自己否定に向かったのは劇的でした。主人公がよりナルシシズムに溺れて悲劇のヒロイン化する畳み方も想像しえたのですが、自身のマッチョを醸成してきた母性のディストピアを破壊しギリギリ土俵際で踏み止まったようなこの展開の感触は、それが無意識の産物だとしても興味深いものがありました。

■後記のようなもの

 結果的に例年に比べて少ない4団体の参加となりましたが、総評の分量は例年と変わらないものになっていました(というか年々増えている気がします。勝手に自分で自分の首を絞めている…)。もし内容面での誤りやその他ご指摘などありましたらご連絡ください。
 次回で審査員10年目です。自分はいつまで続けるのかわかりませんが、賞および賞の継続の必要性が増していることを感じています。今回から始まったレビュアー企画も刺激になります。演劇作品について長い文章が書ける若い人たちが増えていくのはたのしいですね。いいことです。よろしければあわせてご覧ください。


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Mitamura Keiji
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