「宙吊りの現在」

悪い芝居『カナヅチ女、夜泳ぐ』
6/13(木)-20(水) @in→dependent theatre 2nd

 SNSというものは親切にも友人知人の動向を逐一教えてくれるものだから、随分会っていない人でも会っているような錯覚に陥る。真夜中に学生時代の演劇部のコミュニティを眺めながらぼんやり想うことは、自分は就職・結婚・育児といった人並みの社会的機会からいつの間にか自らを疎外していたということで、別段そのことを嘆くわけでもなく、どうこうしようとも思わないが、この作品の主人公と同じく私にとっても演劇を始めた12年前に戻ることはあの寂れた地方都市に戻るということだ。だから個人的にこの作品はその出来不出来を超えたところで少し、身につまされる。
 岸田國士戯曲賞にもノミネートされた前作「駄々の塊です」、そして前々作「キョム!」に顕著だが、演劇という装置あるいは観客という存在と対峙する際、それが愛に満ちた苛立ちや過度の挑発というアプローチが選ばれるのがこの集団の特徴の一つではないだろうか。だが本作ではそんな攻撃性は後退し、代わりに観客を主人公に同一化させ、この物語を「私たちの」物語として受容させることを目的とした仕掛けが張り巡らされる。例えば冒頭、客席に語りかける登場人物たちと客席側から現れる主人公のシーン。主人公が帰郷した地方都市の名前が発せられる際は常に自主規制音が被せられること。そして見慣れたファストフード店などの看板をコラージュした舞台美術、等々。主人公は12年ぶりに夜行バスで東京から故郷に帰還する。久方ぶりに帰る実家、親友は結婚し子持ちになっており、音楽でセカイを変えようとしていたかつてのカレシは街に一つしかないファミレスの店長に収まっている。そしてカレシのバンド仲間は上京するもののパッとせず、同じく上京した主人公と偶然出会うが結局二人揃って爛れた生活を送っていたわけで・・・そんなありふれたエピソードは、それ故に共感の為の装置として十二分に機能する。ただ主人公の姿を観て私がどうしても重ねてしまうのは、三十路前後を境にして小劇場演劇から撤退し故郷/堅気に戻る演劇人のことだ。そもそも何故上京したのかを思い出せず記憶探し=自分探しの旅(90’s回帰!)を始めるその姿は、生活に追われいつしか理想から遠ざかってしまう演劇人の姿に、または大仰に言えば、どうしてこんなことになってしまっているのかわからない、疲弊したこの国の現在そのものにも重ねられやしないか・・・。
 しかし、時制としては12年前にあたるファミレスのシーンで主人公が聞いている音楽が「きゃりーぱみゅぱみゅ」である、という描写があることは何を意味するのだろう?主人公が回想の対象とし帰還する12年前が私たちにとっての「今」だということ、主人公は私たちにとっての「未来」に属する存在であるということ。私たちの主人公への同一化は実は紙一重のところで拒まれている。何処へもいけない私たちは主人公のように重力に逆らったとしても(河童と人間のハーフだから、という唐突で強引な理屈が無ければ)中空に浮かび上がることすら出来ない。私たちは意外に何処へも行けないし、何処へも引き返せないだろう。だがこの宙吊りの待機状態を生きることこそが「現在」を生きるということなのかもしれないし、だからこそこの作品は不思議な肯定感に満ちている。(20日観劇)

(京都芸術センター通信 明倫art vol.147 2012年8月号 より)


いいなと思ったら応援しよう!