「『俳優』の普遍性」
アートスペース無門館+アトリエ劇研 開館30周年記念公演
『ピエールとリュース』
11/13(木)~18(火) @アトリエ劇研
大変恥ずかしながら、僕はこの上演でロマン・ロランというノーベル賞作家を知った。同時代の日本の作家や画家などと交流があったということも初めて知ったし、当然ロマン・ロラン研究所なるものが京都にあることも知らなかった。理想主義的ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムの作家という言葉通り、この作品も反戦色の強い、第一次大戦下のパリを舞台に出会った一組の男女の恋物語とのこと。だが実際にこの舞台を観た方ならまず誰しもの目に止まるであろう、立ち上げられた舞台に鎮座しているのはおよそ100年前、戦時下のパリという原作の時代背景とはかけ離れた小奇麗な今風のリヴィング・ルームであり(ただ後方にはそれに不似合いなステンド・グラスの装飾が釣り込まれてはいるものの)、そこにはいやにポップな原色のカジュアルな服装に身を包んだ小太り(!)のピエールと、こちらもその辺を歩いてそうな幼さの残る大学生然とした佇まいのリュースが現れる。耳を塞ぎビジュアルだけを観ればよくある現代の日常会話劇にしか見えないのだが、彼らが発語する言葉は紛れもなく「ピエールとリュース」のテクストであろうこと…この大きな「演出」がまずこの作品の大枠として有る。
観客はそこで様々なズレ―演じる彼らの身体と元テクストの言葉が丁寧に引き裂かれたり同化したりする様を目の当たりにする。この作品において起こる、100年前のテクストが今の俳優の身体を通して発せられた時の不思議な化学反応は、いかにテクストを自分の言葉として発するか、のようなある種の単純さに回収されることは無い。空襲警報はテレビから流れるあのお馴染みの緊急地震速報に、実際の着弾は地震そのものにと、元のテクスト内で起きるいくつかの出来事は今この国に住む私たちの現実に近い何かに置き換えられていたりもするが、例えば軍需工場、召集令状などといった言葉と、あのピエールとリュースを演じる俳優たちのあの如何ともしがたい「距離」の不可思議さをどう受け止めれば良いのだろう?その言葉たちとの「距離」は私たち観客にとっても同じものであり、それは現実味を増しながら縮められようとしている…と感じざるを得ない不穏な状況の下に今私たちが居ることに上演を観て改めて気づかされる、とでも言えばいいのだろうか?
この上演には恐らく3つのレイヤーが在る。既存のテクストのレイヤーと、そのテクストが上演されているこの国の現在というレイヤー、加えてその2つのレイヤーを時に引き裂かれながら行き来しているはずの俳優たちというレイヤーであり、そこで最終的に前景化してくるのは3つ目のレイヤー、「いかなる状況であっても人間らしく生きること」を体現する「ピエールとリュースを演じる俳優の姿」ではなかったか。演出家はテクストをシンプルに立ち上げるだけではなく、かといってわかりやすく演出過多の前衛に向かうでもなく、あくまでも「俳優」の姿を通して時と場所を超えた作品・作家の本質/普遍性を見事に抽出した。(17日観劇)
(京都芸術センター通信 明倫art vol.176 2015年1月号 より)