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がんばれ

自分自身はこの言葉が嫌いだった。

応援される当事者の状況や気持ちを考えずにただこの言葉をかけるのは、なんだか無責任な気がしていたからである。

そして、大学の頃に受けた講義の中で、がんばれという言葉は無責任な言葉であると思わないかと講師から投げかけられたことがきっかけで、より一層、この言葉が嫌いになった。

もっと良い言葉、その人に届く/響く言葉があるのではないか。そう考えていた。

この考えは、ただのエゴイズムであり、人は頑張っている人を目の前にし、応援しようとすると、無意識的にがんばれと言ってしまうということがわかった。

その人を思ってますよ。他の人よりも考えてますよ。そんな自分自身の気持ちを表現しているだけだったと今回の箱根駅伝観戦を通して反省をした。

箱根駅伝は、いつもテレビで観ていた。しかし今回、祖父母の住む地域出身の選手が箱根駅伝に出場するということ、そして、その選手は自分の卒業大学の学生であると知り、現地に行くしかないと思い立ち、現地観戦をすることに決めた。
そして、複数区間の応援に行くことにも決めた。

はじめ私は1区のスタート付近へ行った。
どの区間の沿道でもそうだったのだが、現地に行ってみると、ライブが始まる前のような不思議な雰囲気が漂っていた。

道路脇では大学新聞の配布や手旗の配布があり、グッズの配布、そして大学応援団の応援などがあった。
そして、選手が来るまで今の状況を観戦しに来た方同士で話をしているのである。

そしていよいよスタート時刻となり、選手を先導する関係車両が通り過ぎる。

いよいよかと思っていると、周辺の空気が緊張感に包まれる。

選手が来た。

周りはがんばれと応援をしていたが、私自身は一言も声を出すことができなかった。

選手の表情や動きを見ていると、今までの練習やその他での苦悩、しがらみなどがあり、ある選手はその重圧を跳ね除けて、またある選手はその重圧の中走っているように感じられたのである。

重すぎる。

その人たちに、響く言葉などない。

だとするならば観戦する人は、選手たちが無事に走り切ることを祈ることしかできないのではないか。

その時、いつの出来事か忘れたが、ある人が、応援の時にがんばれと言うことは、祈りや願いに近いものがあるといっていたことを思い出した。

そうなると、選手にかけるべき言葉はがんばれという言葉が適切なのではないか。

その後の観戦は、がんばれと言ってみることにした。
そうすると、自分の中でも今までのモヤがなくなったような気がした。

少し難しく考えすぎていたのかもしれない。

今度から応援をするときは、その人の無事と力を十分に出し切れることを願って、がんばれと言ってみようと思う。

そんなことを考えた2025年2日目の出来事であった。

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