Can なのに Do しないのはNo
●やればできると教えてくれない社会
予め申し上げておくと、100円ショップの話ではありません。もちろんながらルー大柴さんの話でもありません。
最近、何やらモヤモヤっとすることが多い世界線に生きている我々。失われた云々…な破滅的思想が大流行していて、邪悪な噂話をこよなく愛する人々が蠢いている怖しい世界になってきたなと感じています。
フェイクニュースなのか本当のニュースなのか、TVを始めとする様々な媒体の信憑性が瓦解してきていて、真っ直ぐ生きる難易度が高まっています。
特にワイドショーなんて観れば観るほどに損をすると思っている私です。
さて、そんな現代だからこそ、心が疲れてしまった方々をサポートしようとする社会貢献に熱心な政党や企業、メディアや有志団体などが生まれてくるのは必然なんでしょう。もちろんその活動には尊敬に値するものもあるし、私のような利己的な人間には到底できないことだと思います。
しかし、その活動が広く認知されていくことで、本来であれば前に進める心を持った方が沈み込んでしまうようなネガティブな状況になることもあるのではないかと危惧しています。
今回は、言い換えるとやればできる人なのに自分はできないという負のマインドコントロールによって骨抜きにしてしまうのを止めたいというお話です。
人間は元々、とても弱いモノ。
逃げ道があれば逃げ込んでしまうのは自明の理。
であれば、前に進めるような発想で疲れた心を癒すための休憩場所としての機能は認められるとして、逃げていいんだよという囁きは果たして本当に当人のためになるのでしょうか。
※中には本当に当人のためになる場合ももちろんあると思います。
私は悩んで壁にぶち当たった時こそ、たとえ上手くいかなかったとしても許容してあげれる空気を作ることが大切だと思っています。いわゆる失敗は成功の元的な発想です。
悩んで落ち込む時は誰にでもあります。
私自身がそうですが、起こってもいない不確実な未来に対してネガティブな失敗をイメージすることで恐怖心や不安が募り、何故か自分はできないと思い込んでしまうことで閉じこもってしまうケースが多々あります。
同じような経験をされた方も多いはず。
全ては閉塞的な社会の空気が課題だと考えています。
人間はとても弱い…かもしれませんが、案外、思っているほど弱くはないと思います。
●失敗だらけの自分自身
社会に出てからの私は特筆すべき活躍もなく、与えられた仕事に自分なりの価値を感じて、粛々かつ平々凡々と取り組んでいました。
他人とコミュニケーションをとることが好きだったためか、前職は自分に合っていたと感じています。
※これまでの経緯について触れています。
そんな中でも、死ぬほど失敗した経験は少なくありません。むしろ死ぬほど多いんじゃないか…
経験不足な若い頃だったからこそ、より多くの失敗から学べたことはかけがえのない財産です。
もちろん私の数々の失策によって多大なるご迷惑をおかけした方々には今も足を向けて寝れません…助けていただいた皆さま、本当にありがとうございました。
さて、失敗を例に挙げるとnoteがそれで埋め尽くされるので割愛するとして、私の働いていた環境(特にそのうちの数年間)はかなり厳しいモノでした。
本当に人で支えられていたと感じています。
当時は群雄割拠の小売業界において前職の存在感は計り知れないモノ。
特に私が所属していた部署(婦人服)は利益の屋台骨だからこそ、失敗なんて許されない。
ましてや売上や利益が減少するなんてことはあってはいけない。経費節減なんて当たり前で、徹底的な成果主義。できない人間にチャンスはない…
と、書けば書くほど地獄のようには思えますが、誤解のないように補足をすると楽しい職場だったことは間違いありません(ホンマかいなと思われますがホンマなんです笑)。
ここでは書けないような出来事がたくさんありました。特に思い出すのは、当時の事業責任者(いわゆる上司の上司)がめちゃくちゃ厳しく、毎週月曜日の会議で滝行のように厳しい刺激を受けて育った、という今思えば笑い話です。
とまぁ、こんな感じです。
ここで伝えたいことは「辛かったんです…」という悲観的なことではなく、これだけ厳しい環境だからこそ成長機会があったし、何よりも楽しかったということ。
もちろん、当時の直属の上司や先輩、同期にお取引先様に支えられていたのは言うまでもありません。
しかし、今思うと鬼教官:事業責任者から受けた数々の滝行(業務に対する評価)はかなり的を得ていて、表現はさておき内容は完全に仰る通り。
足りていないのはまさに自分自身の能力でした。
むしゃくしゃしながらも一向に改善しない現状を嘆き、ハッキリ言えば腐っていた時期もありました。同時に、そのやり切れない怒りを誰かのせいにして、現状から逃げようとしている自分に気付いてしまったのです。だからこそ、直接的な言葉が刺さるというよりも、自分自身の足りなさや弱さに嫌気がさしていました。
「できない自分が悪いんだ。」
まさに逃げ出したいと思った瞬間がそこにありました。
しかし、自分を責めても成果は出ません。クサクサした気分がより増すだけで、何も事態は好転しません。むしろ自分を責める必要はない。というか誰も悪くない。
気持ちを逃すだけで楽になるのは、目の前にある宿題を後回しにしているだけ。結局、そのツケを払うのは自分自身だったのです。
●諦めたらそこで試合終了
某スラムダンクの安西先生の言葉は本当に適切です。
翻って自身の置かれている状況を分析していくと、逃げようもない現実が明らかになりました。
そうです。
どうしようもなく逃げ出したい環境を作ってしまったのはまさに自分自身でした。
ネガティブな思想に心も身体も支配されて、誰に期待されているわけでもないのに誰かの眼を気にしていました。
立ち止まったら負けだ、もう自分は這い上がれない、そんなベトベトな重たい感情が私自身を包み込み、どうしようもなく動けない状況になっていました。
そこでふと、気付いたことがあります。
「私は一体、何に囚われているのだ?」
この気付きが私を前に進ませてくれました。
最初から私は何にも囚われていなかったのです。
自分で勝手に悲劇のヒーローを演じていたピエロのような、決して勇敢ではない人間らしさ満載の状況になっていただけなのでした。
あそこで逃げていたら今の自分はいないでしょう。
とはいえ、今でも逃げたい瞬間なんてたくさんあります。毎日あると言っても過言ではないぐらい。それでも、諦めずに前を向かなければその場に立ち尽くしたままで終わり…結局、何も改善されないのです。
何も改善されなければ自分の人生は前進せずに停滞して、もっとおもしろくないことになってしまいます。
そんな結末は嫌だ!
だから、諦めた時が終わる時だと常に自分を奮い立たせています。
●他責に逃げることだけはNG
悩んで沈んで落ち込んで…
ネガティブな思想にふける時、自身を責めがちだと思いますが、きっとそれは違います。
自身を責めているのではなく自分とは関係ない何か(もしくは誰か)を責めていることがほとんどだと思います。
というのも、本当の意味で自己責任的な発想なのであれば、愚痴なんて到底必要ないからです。
失敗して落ち込むことは理解できます。何度やって上手いこといかない自分自身を責める気持ちもわかります。しかし、その場合は何度でも立ち上がれるものです。なぜなら自分の意思で動いた結果なのだから、上手いこといかなくても自己責任。
問題なのは、チャレンジもしてないのに落ち込む人です。課題に直接向き合わず、それなりにその場をいなして事なきを得る。言いたいことも飲み込んで、あとで暴発してしまう…そんな人が現代に多いように思います。
まさに私がそうでした。
できない理由を他人になすり付ける。
「できない自分が悪いんだ」
と心の中では思っていながらも
「思い通りにならない(課題が)」
「思い通りに動かない(現状が)」
「お願いしても聞いてくれない(他者が)」
…などなど、常に"悪い"矛先が第三者(もしくは環境)に向いていました。
いわゆる他責に逃げるということです。
思い通りにならないのは自身の努力が足りないから。お願いしても聞いてくれないのは自身の伝え方が非効率だから。
全ての原因は自分自身にあります。
他責に逃げているようでは根本的な解決には繋がりません。これに気付いてから努力する方向が変わったように思います。そうして、少しずつですが自己成長を感じることができました。
気が付けば落ち込む頻度は少なくなり、視野が広くなり視座が高くなったように思います。
もちろんまだまだなのですが…
●自責に気付いて初めて前に進める
自分を責める理由が他者である限り、自己成長の機会は遠のいてしまいます。
間接的に第三者を責めたり、どうしようもない環境を嘆いたり…雇われていた頃は会社や上司のせいにして、変えられない現実にネガティブな想いをぶつけて心の安寧を保っていました。
そんなマインドでは絶対に現状は変わりません。
大切なのは真の意味での自責に気付くこと。そして、それを踏まえた上で課題と真摯に向き合うこと。これに尽きると思います。
そこで大切なのは、失敗しても良いということに気持ちを持っていくことなのではないでしょうか。
不足ながらも幸いにも自身の会社は少なくともこの風潮を大切にしています。できうる限り(限度はあるものの)我々の身の回りの失敗は会社で飲み込むことにしています。
それをより明確にできるように、私自身は常に自責の念を持って日々の仕事に取り組もうと思います。
やればできる。
できないことはない。
やればできるんだから、やらない理由はない。
そんな気持ちで明日からも頑張ろうと思います。