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価値観という判断基準の誤謬

誤謬(ごびゅう)という難しい字を使いたくなった2025年。今年こそは月に1回は更新しようと、いつも1月は気合が入ります。たぶん無理だけど…

さて、今年も自身の成長のために様々なことにチャレンジしようと思います。事業はもちろんのこと、人間的な成長に繋がるように考え方もより進化させねば、と息巻いています。
昨年は反省の多い1年間でした。自分の思い通りにいかないことなんて息をする回数よりも多いはずなのに、クヨクヨしたりイライラしたり、モチベーションに悪影響を与えるような考え方に支配されていたと思います。「人間らしい」と言えばそれまでですが、やはり感情的になるのはいけない。今年はそんな自分を払拭するために頑張りたいと思います。

さて、早速ですが、昨年の反省から学んだことは"価値観の違いを否定しない"ということでした。

価値観とは、その人の発言や行動を下支えする考え方を指します。これは人によって多種多様であることが自明の理であるにも関わらず、自身の価値観の外側にある考え方に触れると誰もがモヤっとしてしまいます。
これは"価値観が同じ人と付き合わねばならない"という偏った考え方から生まれる感情です。でも、価値観が同じ人間は存在しない。おやおや…これは無理ゲーじゃないかと気付いた方は少なくないはず。
なので、私は価値観で他人を判別せずとも人生を豊かに過ごすことができる考え方について日々、模索してきました。その結果、冒頭に述べたように他者の価値観を受け入れながら楽しく前に進む手法、"同じ目的を共有する"という考え方に辿り着きました。

とはいえ、価値観の違いを許容することは難しい。なので、そもそもなぜ人は価値観が同じ状態を好むのか、なぜそのような考え方が身についたのかを考えてみます。

●学校で学ぶのは"みんなと同じ安心感"

昨年はちょうど娘が小学生になりました。ある程度の自由が与えられていた保育期とはまた違い、学校という社会性が求められる領域にドボンッと浸かっていく彼女を見ていて、懐かしい気持ちと自身が成長してきた変遷を改めて考える機会を得ました。


学校という環境では"みんなと同じ"であることが基本ステータスになります。
私も「みんなと同じでなければならない」と謎の不安に掻き立てられて、みんなと同じような洋服を着て、みんなと同じTV番組を観て、みんなと同じようにロッテリア(当時はたくさんありました)に通い続けました。
小→中→高と成長していくにつれて、集団行動の大切さは身に沁みて学ぶことができましたが、その過程において個性的であることに対する憧れが徐々に生まれていることにも気付くことができました。年次が上がっていくにつれて、服の着こなしを崩していったり(制服をズルズルに着る)、流行りのTVには興味が湧かなくなり(ずっとバスケのビデオばかり観る)、ロッテリアよりもマクドナルドの方が良いと感じるようになりました(当時のマクドナルドはちょっぴり洒落ている存在)。

友人たちも上記のように個性を発揮する方向、いわゆる価値観が同じような仲間たちが増えていって、学生時代はとても充実していたように思います。

大学生になるとそれこそ個性のセレクトショップであり、部活動やサークル活動を除くと価値観が同じでなければ友人ができない、という大変難しい環境に激変します。自身の価値観をすぐに気付いてもらわなければならないので、個性の方向は様々であってもいわゆる学生感丸出しがわかりやすいスタイルでいたような気がします(流行の髪型、言動、ファッションなどなど…)。思い返すと恥ずかしいような、センチメンタルなような、何とも言えない気持ちです。
とてもありがたいことに友人には恵まれたので、今もなんとかこうして社会の一員になることができました。私の子どもたちも同じように右往左往しながらも、自身の幼少期を振り返れるようになってくれたら嬉しいです。


このように集団行動を学んでいる脳と身体の隙間には、個性重視の考え方が張り付いています。社会人になれば1人、つまり完全に個性を求められてそれを発揮することが必要です。孤独による不安を集団でいることによる安心感によって払拭したいがため、より価値観が同じ人間性を他者に求めるようになる気がします。"みんなと同じ"であれば安心するという、個性重視の考え方に反しながらもやはり安定感のある環境に身を置きたくなる。
現実社会でもSNSでも同様に、コミュニティと呼ばれるセーフスペースが生まれることは人間社会の必然であると考えざるを得ません。

といっても、価値観が全く同じ人間など存在しないのがこの世界のおもしろい部分です。セーフスペースの中であってもすれ違いが起きるのは当然であり、人はどこまでも他人との違いを許容するようには出来ていないことがわかります。それなのに同じ価値観でなければならないことをいつまでも追い求めて、違う価値観に対してモヤモヤするという負のスパイラルをいつまでも繰り返してしまうのです。

●価値観の統一が人生命題ではない

心を許せる場所=価値観が同じ人間の集団だとすると、価値観が同じでなければ幸福になれない、という一種の歪んだ思想が心の奥底に張り付きます。確かに同じ価値観である母集団に所属することは自己肯定感も下がりにくく、生活を脅かす恐怖を感じることも少ないでしょう。

しかし、前述したように価値観が全く同じ人間など自分以外には存在しないのです。「同じ価値観でなければいけない」という強迫観念は、時には人生において最も足を引っ張る思想になりかねないという危険性をはらんでいると思います。同じ価値観を追いかければ追いかけるほどに、自身の感情を蝕んでいく何かに支配されていきます。
自分で考える幅が狭くなり、主体性が弱くなり、幼少期に憧れていた個性主義の発想は風前の灯。個性を守るために集団を形成したのにも関わらず、その集団が自身の個性を奪っていくという、なんとも皮肉な結末になってしまうこともしばしばあります。

時には違う価値観をもった集団を敵だと見做すこともあるでしょう。ちょっとした考え方の違いなのに、それがあたかも生死を分けるような結果に直結するかのように危険視して他者を攻撃する、という愚かな行動に誘われる方々もとりわけSNSでよく見かけます。もちろん現実社会でも同様の事例にたくさん出会いました。
また、善悪の定義も自身の価値観を中心に定義付けられているような気がします。自分の価値観に近い人=善、自分の価値観に遠い人=悪と決めつけて、反対意見を弾劾して論破してしまうような場面もよく見受けられます。

価値観の統一を目的に据えることで"心地良さ"を手に入れることはできます。しかしそれは、ある意味で自分自身の進化の可能性を阻害している行為になる可能性もあります。

人生を豊かに過ごすためのKPIを"価値観が同じ人とたくさんの時間を過ごす"とか、"価値観が似通ってくるように他者と対話・説得する"とか、そんな不可能なことに時間を費やすのはもったいないとすら考えてしまいます。

●違う価値観を受け入れる大切さ

少し前の話になりますが、ここまで論じてきたように私は「幸せを得るためには同じ価値観でなければならない」という強迫観念に縛られて生きてきました。
安心感のある集団を形成しその外側にいる考え方を排他的に捉えて、攻撃するまではなくとも敬遠したり、歪んだ心地良さを求めるために負の感情に支配されていきました。

「どうして同じ価値観じゃないんだ。」
「どうして誰もわかってくれないんだ。」
「僕はこんなに頑張っているのに。」

このように愚かな自分に気付いた時、とても情けない矮小感に浸って落ち込むことも多々ありました。一つの組織のリーダーとして、一つの家族のリーダーとしては不適合極まりない人間性の持ち主でした。

しかし、会社経営を始めて数年が経った頃、「そもそも同じ価値観なんて存在しないのだから、それを追い求めても何ら成果を得ることはできない。むしろ強引な価値観の強制で不幸が起きることもある。」ということに考えが至りました。むしろ、同じ価値観でなければならないという制約は様々な進化の芽を摘むことに繋がりかねない、とハッとした記憶があります。

さて、冒頭にあるように同じ価値観であることは大切ですが、決してそれを目的として生きているのではありません。むしろ価値観とは人生を捉える手段の一つでしかありません。本当に大切なのは、その手段を用いてどのような目的を果たしたいのかという1点に尽きます。

私の学校生活であれば「楽しく学びたい・楽しく過ごしたい」、ただそれだけが目的でした。そのため、同じような価値観を持った仲間を集ってつるむことが最善策だったように思います。
翻って、部活動では「勝ちたい・チームとして良い成績を残したい」、そんな目的が統一されていたために違う価値観を持った友人ができることに繋がりました。もちろん目的達成のためのいざこざもたくさん経験しましたが、今振り返ればとても良い経験だったように思えます。

こうして、違う価値観に触れることで自身の考え方も拡張されていくことに気付いた私は、大学生→社会人になるにつれて人間関係構築の面白さに気付きました。
多様な価値観を受け入れることで友人関係の輪が広がり、自身でも思い付かないような発想や自身では行かなかった場所、出来なかったような経験が私を待っていました。違う価値観に触れたことで新たな扉が開いた感覚です。

一方、事業に関しても同様です。
自身が代表者であるために全ての責任をとることが大前提であるからこそ、自分が考えた計画や発想が全て正しいと慢心してきた場面がたくさんありました。当然ながらその全てがうまくいくことなんてありません。むしろ間違ってさえいたこともあります。にも関わらず他者の意見、つまるところの価値観を受け入れず猪突猛進に突き進んで失敗する、そんな経験にモヤモヤしていたこともまたたくさんあります。
組織とは、あるコンセプトの元で多様な価値観をフル活動して目的達成のために勤しむ集団です。コンセプトを理解した上での互いの行動が複雑に絡み合って新しい価値を生み続けることが命題であります。それなのに1人の価値観で洗脳して断行するのは独裁政治になり、企業存続においてデメリットでしかありません。

当社の事例でいえば、私のアイデアよりもスタッフのアイデアによって会社の未来が明るくなったことも多々あります。もちろん何でもかんでも他者の意見に迎合するのはNGであり、価値観の吟味は必要です。コンセプトの理解は浸透しているのか、利他的な精神が備わっているのか、チームのための発想であるのか…などなど、様々なことを比較検討しなければなりません。そのためにも自身の中に多様な価値観をインストールして、目的達成に最適なアイデアを捻出することがリーダーには求められます。

もちろん日常生活においても同じような考え方が活きてきます。大人になればたくさんの人々との触れ合いが生まれます。友人も家族も子どもも同じく、楽しく過ごしたいという目的が基本的にはあるので、些細なことで対立を生むことはネガティブです。むしろ多様な価値観が存在するということを念頭に置けば、大抵のことは寛容でいれるように思えてきます。

このようにあくまで価値観とは手段であり、これだけで他者を判別・評価するには不十分であると考えています。価値観の相違に辟易せず、目的の共有と共感度合いを意識して生きていくことが大切です。

●目的を共有することが幸せの第一歩

以上のように、どう足掻いても統一することが困難な価値観中心の考え方よりも、シンプルかつ合理的な目的の共有を軸に据えた考え方の方が心が平穏です。さらにこちらの方が気楽で楽しく、毎日を過ごすことができそうです。

目的の共有と共感さえできていれば、価値観の違いなんて大した問題ではありません。人間それぞれが持つ多様な価値観を受け入れて、より豊かな時間を過ごす糧にすることができればとても幸せだと思います。

・価値観が違う人を悪と判定しない
・価値観の違いは成長のチャンスと捉える
・目的の共有と共感に努力する

上記の3点を特に今年は意識していきたいと思います。

2025年もみなさまにとって良い一年になりますように。
今年もよろしくお願いいたします。

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