『Starfield』航海日誌 1日目
【注意!】この記事はネタバレだらけです
航海1日目を終えて
6時間ほどゲームをして、コンステレーションのサラから具体的なミッションの内容を聞く直前まで進めた。
現在から280年もの時が流れた未来を描いているこのゲームの世界に対する私の第一印象は、はっきりいって失望である。人間はあまりに人間の姿を保ちすぎている。彼らはいまだにファッションを気にしているし、見目うるわしくなろうとしている。機械に意識を移し変えた人間にもまだ出会っていないし、腕が金属でできた人間にすらまだ出会っていない。相変わらずクレジットという概念が意味を持ち、資本主義は継続している。豪華なロビーを備えた謎の大企業のビルがあるし、店では生身の人間が接客をしている。そんなもの全て過去に置き捨てていって構わないのに。
宇宙を駆け巡るための強大な技術力を手にした人間が、愚かしいほど昔の風習を、それも悪しき風習を守っているように見えるのは、このゲームの伏線なのかもしれない。アーティファクトは、人類にとって未知のエネルギーとテクノロジーを用いて生成されたものであり、それは宇宙に人間以外の知的生命体がいる可能性を示している。その可能性の豊かさを強調するために、ベセスダはアルファケンタウリのいち都市を呆れ返るほど退屈な姿に描いたのかもしれない。
しかし、何といっても、人間が100年もの間宇宙を飛びまわり、異星生物を観測してきたにもかかわらず、そこに知的生命体と呼び得るほどの知性を見出せなかったこと、それ自体が、人間の非常に傲慢な愚かさを示しているように思える。地球にいる私たちはすでに、人間とは別のあり方で世界を認識している、賢い生き物が無数にいることを想像できるはずだ。私たちが犬として生きることができず、ハチとして生きることができず、トカゲとして蝙蝠としてタコとして生きることができないとしても、その生物達にはその生物達特有の、世界を認識する方法がある。宇宙を飛び回っていた人間は、その間何をしていたのか。人間の探索域に知的生命体がいなかったとは私はとても思えない。ただその生命の知的あり方に歩み寄る人間の知性が足りていなかったのだ。
主人公である私は、いつか、人間を超えるような運命に立ち会えるだろうか。