面倒くさいという気持ちについて面倒くさがりながら考えたこと
序
とりあえずご署名ください。
個人的な話で恐縮だが、現在私のバイト先では上層部主導の方針転換があり、それが私の就労環境の微細な面倒くささを増幅させている。同時に、私はものすごく遅いペースながらデイヴィッド・グレーバー(『ブルシット・ジョブ』の著者)の『官僚制のユートピア』を読み進めている。このふたつの状況が合流する地点で、私達の生活に否応なく浮上する「面倒くささ」について考えていた。そしてこの「面倒くささ」の問題は、数多の反対意見を呼び起こしているにも関わらず強行されつつあるインボイス制度の問題とも関わっているなと思い至ったので、これら(貧乏フリーターの就労環境、世界的に有名な人類学者の著作、執り行われようとする国家的政策)の重なるエリアについて考えていることを文章にしようと思う。
この文章の結論は以下の通りだ。
「面倒くさいと考えることそれ自体が面倒くさいのだから面倒くさいと考える間も無く行動し完了しろ」という思考に正当性がある領域、無い領域、それを見極めるのは面倒くさいが見極めないともっと面倒くさくなる。
面倒くささについて考えた経験がある人は、この文がものすごく当たり前のことを言っているだけだと一読してわかるはずだ。でもちょっとややこしいので説明したい。
1. だらだら迷わずやっちまえ
「やらなければいけないこと」「やるべきこと」が面倒くさいと言う感覚は、ままある。というか、めちゃくちゃある。そういった面倒くせぇなぁと思っている時間を、ちょっと格好つけて「人生」とか呼んでるだけなんじゃねぇかと言いたくなるときすらある。
「やらなければいけないこと」「やるべきこと」は、生活資金を得るための賃労働であったり、生活環境を維持するための家事だったりする。やらなければいけないけど、面倒臭いのが当たり前で、面倒くさがることがもうすでに面倒くさいのだ、という次元が発生する。「お風呂に入るのめんどくさいな~、でもな~……入らなきゃな~……」という気持ちに支配されて1時間を過ごすのなら、さっさと風呂に入って迷いから解放された方がいい。誰だって小学校時代の宿題から流しに溜まった食器に至るまで、様々な形でこの感覚を経験しているはずだ。
この「面倒くさがることがもうすでに面倒くさい」という感覚について、アニメ『アドベンチャー・タイム』に関する話もしたいのだが、流石に脇道に逸れすぎるので別記事とする。気が向いたら読んでね。
2. だらだら迷わずやっちまう、それでいいのか?
労働の現場において、理由が不明瞭な細かなルールがあったり、明らかに形骸化している作業があったりするのに、人が不思議とそれを正さない、そんな場面に立ち会ったことがある人は多いと思う。これが一人暮らしの人間の家事のような、純粋に自分のために行われるものであったり、絵を描いたり、歌を作ったり、本を読んだりするような自らが愛する行為に伴う面倒事であれば、人はそれを速やかに最小限にするか、その面倒臭さすら楽しもうとする。
私は絵を描くのが大好きだが、絵って本当に面倒くさい! 笑っちゃうくらい面倒くさいその過程が絵を描くことの面白さときれいに重なっているのだ。私にとって絵を描く行為は「望ましい面倒くささ」と言えるかもしれない。
しかし、労働は違う。労働とはその性質上、行為全体が「望ましくない面倒くささ」を含意しているので、大きな面倒くささの中に微細にちりばめられた面倒くささが埋没して行くのだ。
労働ってのは面倒くさくて当然なんだ。そもそも全てが面倒くさいのだから、面倒くさいと考えること、それ自体が面倒くさいんだし、疑問を持たず、機械的に言われたことをこなしていれば良いんだよ、という思考停止の状態になる。私がバイト先で直属の上司に不満を提言したときの反応もこういったものだった。「ま、仕事なんだからさ」ってやつだ。
でも、そうじゃないはずだ。その考え方自体が一つの罠に嵌っている。私の直属の上司は話せる人だし、罠のことも意識していると思う。しかし中間管理職に従事する人間として、私のような「労働なんて誰も殺さず自分も死なずに銭持って家に帰れたら上出来だろ」みたいなのらくらした考え方が(少なくとも表向きは)しにくいのだろう。
それでも、思考停止しか道がないはずがない。私は労働が嫌いなので、「良い労働環境」というのは所詮「耐えやすい拷問」とか「ドジョウや鯉や鯰なら住める泥水」みたいなものだと思ってる節があるが、だからといって(だからこそ)労働環境や社会を「死に至る拷問」や「生命の死に絶えたドブ」にしていい訳がない。「これって別に必要のない面倒くささじゃないですか?」と言っていく必要がある。
上に立つ人間が下の人間に理不尽になったり冷酷になったりするのに、悪意なんて大層なものはいらない。ただ、ぼんやりしていると相手が人間であることをついうっかり忘れてしまうのだ。それがビジネスと権力の性質なのだ。だから時折、私達が意思のある人間であることを思い出させてやらなきゃいけない。私の直属の上司は、そのまた上司に自分は人間だよということをアピールする機会はあるのかなぁとちょっと考える。
そしてそもそも、労働全体が「これって別に必要のない面倒くささじゃないですか?」という提言もできる。私たちは泥水の中で生きていかなければならないかのように思わされているが、実は陸上でも呼吸できるのではないか?
3. 自明の制度など無い
インボイス制度が施行されることが明らかになった当初から現在に至るまで、インボイス制度内で如何に身を処せば損をせずに済むか(損失を最小限に抑えられるか)を税理士さんにアドバイスしてもらうような記事や書籍がいくつも現れた。
税理士の方々の能力はまさしく、与えられたルールを動かしがたい自明のものと了解した上で、ルールの中での最適解を探る、というものだと思う。そういう業務が大の苦手な私としては、その職能はひとつの離れ業に見える。しかしその職能の見事さとは別の問題として、問わなけれはいけないことがあるはずだ。つまり「与えられたルールは本当に動かしがたい自明のものなのか?」。
2019年に消費税増税と低減税率の運用が行われた時、メディアがこぞって「何に低減税率を適用されるか」を巡ってしょっぺぇ大喜利のような記事や番組を発信していたことをご記憶の方も多いと思う。イートイン脱税問題の取り上げ方などが代表的だ。システムの中で行われる細々とした不正に視線を集めることで、押し付けられたシステム(この場合は消費税増税)それ自体の正当性を問う声が掻き消されてしまう。そもそも消費者や小売店に大きな負担をかけてまで逆累進性の消費税増税をするってどうかと思うぞ、という根本的な反対意見が見えにくくなるのだ。
これは前述した、労働において面倒事が増殖することを看過させる罠と相似の関係にあると思う。労働とは面倒なことなのだからその内部で発生する面倒くささには心を殺して対応しろ/社会で生きるとは金を毟り取られることなのだからどんな手段でいくら毟り取られるか気にするだけ無駄なので納税しろ、という図式だ。最悪のポケットモンスターだ。
民間の分野でも公営の分野でも、上層に位置する1%の人間が撒き散らした不条理を、末端99%の人間の努力でなんとかする、という図式が常態化しすぎていて、そのクソさに諦念が漂っていると感じる。ヒトの突出した能力は知性ではなく適応力だと思い知らされるが、抜群の適応力が気高い姿で結実しているさまを見ることは稀である。私はこの諦念による不遇な適応から多くの人が脱してほしいと思っている。私も脱せているわけではないのだけれど、だからこそ共に陸に上がろうとする隣人がいれば心強い。
結
私は、人が生きているだけで互いを傷つけ合うのをやめさせたい。私の生育環境がそうだったからだ。私の母は自分の人生を夫(私の父)によってズタズタにされたと感じていたのだと思う。だから子供(兄と私)を介して人生を取り戻そうとしていた。しかし知っての通り人生は誰にも肩代わりしてもらえないので、母の人生は人生を子供を介して取り戻そうとしたけれど失敗した人生として経過した。私はその挫折を間近で見ていた。私はその挫折に由来する母の八つ当たりをこの身に受け、その鬱屈を兄への暴言にして発し、兄を苦しめた。もうあんなことはうんざりだ。
できるだけ多くの人が、面倒くさい業務や、面倒くさい制度の問題点を意識して、感じている不満や怒りや苦しみを露わにしてほしいと思う。自分がドブの中に住んでいるのは仕方のないことなのだなんて、信じないでほしい。自分自身を見くびらないでほしい。自分の苦しみの溜飲を、他者を苦しめることによって下げようとしないでほしい。生きていれば街で他者と肩がぶつかることもあるし、誰かに負担を肩代わりしてもらう必要も出てくる。でも諍いや負担の総量を減らしていくことはできるはずだ。
私は楽して生きていきたい。みんなにも楽をしてほしい。だからちょっと面倒くさかったけどこの文章を書いた。
最後に改めて冒頭の結論をコピペし、インボイス反対署名のリンクを貼りたい。
「面倒くさいと考えることそれ自体が面倒くさいのだから面倒くさいと考える間も無く行動し完了しろ」という思考に正当性がある領域、無い領域、それを見極めるのは面倒くさいが見極めないともっと面倒くさくなる。
長い文章を読んでいただいてありがとうございます。
兄さんごめんなさい。
おしまい