『バイオ8』ドナ・ベネヴィエントの人物像に関する覚書
【注意】この記事はネタバレだらけです。
ゲーム『バイオハザード』シリーズの第8ナンバリングタイトルにあたる『バイオハザード ヴィレッジ』に登場するキャラクター、ドナ・ベネヴィエントの人物像について、判明したこと、推測したことを書いていくページです。
ドナという人物は作中ほとんど発言をしないため謎が多く、その人柄を偲ばせるのは専ら「ベネヴィエント邸」という彼女の住まいなのですが、これについては別記事で後日まとめたいと思います。
ドナの人物像は彼女の住まいと深く結びつき、二者を峻別することは難しいものの、このページは住まいとの関連がさほど深くないオブジェクトやドキュメントについて言及します。この記事を軸にして、何か新たに気付いたことや、浮かんだ仮説、目を開かされるような他の方の解釈の発見などがありましたら、追記や引用を加えたいと思います。
1.ドナのカドゥ適合・貴族入りの時期について
【結論】ドナ・ベネヴィエントが変異したのはごく最近である。
単純な手がかりを単純に辿っただけなのですが、個人的には衝撃で、なおかつこのことに言及しているページなども見つけられなかったのでメモしておきます。
ベネヴィエント家の庭師、ヨーゼフ・シモン氏は某年11月10日に、ドナが四貴族入りしたと日記に書いており、11月29日には「もっと家内に会わせて」やると屋敷に誘われたと記述しています。この記述をもって日記は途切れており、ドナの幻覚の影響を受けて他界したことが仄めかされます。ドナに悪意があったのか、庭師がバッドトリップしてしまったのかはわかりません。
ここで気になるのは日記が何年に書かれたか、つまりドナが何年にカドゥ適合したかです。
上掲したメモが戸口に貼ってある楽器職人の家には、屋外には子供用の自転車が、屋内には子供が描いた絵があり、楽器職人である父と幼い娘が暮らしていたことが偲ばれます。
娘が描いたこの絵が次のヒントです。
5歳の誕生日を描いたとされるこの絵には「27.09.17」と数字が記されています。年月日の記述の順序は国や地方で差があるでしょうが、イーサンが村を訪れたのは2021年の2月なので、この数字が意味する可能性があるのは2017年9月27日のみです。つまり楽器職人の家には、少なくともこの日までは家主(父)がいたことになります。
これで 2017年9月27日以降に「家主が長期不在」になったため、庭師が家の鍵を預かった → 死人が鍵を預かることはできないので、当然日記が途切れたのは鍵を預かった後である という順序が判明します。
なんだか1+1=2であることをダラダラ話してるみたいで間抜けな感じになってきましが、以上の手がかりからドナの変異はどんなに早くとも2017年の秋の出来事であることが導き出されます。それって……めちゃめちゃ最近じゃない!?
ミランダが約100年間生体実験を続けてきたにもかかわらず、一定以上の適合が見られた例が4名しかいないことを考えると、おそらくドナは四貴族内では末娘のポジションでしょう。かわいいね。
一方、村の歴史について西暦表記という貴重な考察材料を提供してくれる別の材料があります。ゲーム内でも大きな存在感を放つオブジェクト、クラウディア・ベネヴィエントの墓石です。
墓石には1987-1996と刻まれ、死者のあまりの幼さは土地に染み付いた悲しみの気配を一層濃くしています。
ドナの外見は20代に見えます。仮に2017年に25歳で不老になったとすると、彼女が生まれたのは1992年、クラウディアが9歳でこの世を去った1996年にはわずか4歳です。早逝した姉に対し、幼い彼女は何がしかの感情を抱きえたでしょうか?
2.ドナ・ベネヴィエントは"聖女"ではない
【結論】家族写真の裏の文字はドナが書いたものではない
ベネヴィエント邸を印象付けるものは数多ありますが、そのひとつにミアとローズの映った写真を上げることができるでしょう。この写真はクラウディアの墓の奥にある扉を開けるために一時イーサンの手元から奪われ、ドナ撃破後に持ち物に戻ってきます。
戻ってきた写真の裏には「ローズをずっと守ってあげてね イーサン」と書かれています。いや、正確に言えば、そう日本語訳が付いているのです。
1周目において私はこの日本語訳に引き摺られ、この文字をドナが書いたものだと思っていました。そして家族を喪った女性がゲームにおいて「敵」として登場しながら、このような優しい言葉を残した悲しさについて考えていたのです。彼女は他の貴族たちほど残虐ではなかったのではないか、悲劇的な運命に見舞われ魔女の汚名を着せられて火刑に処される"誤解多き聖女"のようなキャラクターだったのかなと。とは言っても彼女も村で行われていた凶行の、少なくとも傍観者ではあったので、その清廉性は条件付きのものではあるのですが。
しかし2周目にしてやっと、この写真裏の(日本語訳ではない)文字そのものを注視して、違和感を覚えました。「Take care of our little Rose」。「our」?? ごく最近村に攫われてきたローズに対してドナがする表現としては、ちょっと大仰な執着を感じます。そんなわけで私は「Take care of our little Rose」でググってみました。そしてこの言及を見つけたのです。
タイトルは「That person didn't write the message on the back of Ethan's family photo(あの人はイーサンの家族写真裏のメッセージを書いてない)」です。
このスレッドでは、「our」という表現に違和感を感じた投稿者が、ベネヴィエント邸に入る前の写真裏に泥汚れがあることを指摘し、ドナはこのメッセージを新しく書いたのではない、ミアがイーサンに向けて描いたメッセージを読んだのだ、という説を展開します。
この説を読んでからベネ邸に入る前の写真を見ると、なるほど説得力があります。もし製作者が、このメッセージがドナが書いたものであると明確に印象付けたいのなら、最初から泥汚れなどつけなければ良いのですから。
ドナはイーサンから家族写真を奪った後、何かしらの理由で泥汚れを落とし、その過程でメッセージを目撃したのです。ベネ邸での出来事は幻覚の支配下にあるため、見聞きしたもののうちどこまでが事実であるか見定め難いのですが、アンジーが攻撃的な態度を取りながらも「パパになって」と言ったり、ドナ本人が「行かないで」と立ちふさがった一因が、この暖かな家庭的シンボルへの羨望や嫉妬にあるかと思うと、また趣の違う悲痛さがあります。
【余談】漫画の反省会、そして彼女が"聖女"でなかったことが嬉しい
この前漫画を描きました。読んで!
この漫画のネームを切り終えたのは、一周目のストーリーを終えてすぐあたりだったので、私は「ローズをずっと守ってあげてね」という言葉がドナによって書かれたものであるという認識で彼女の立ち居振る舞いを考えていました。この章で至った「家族写真の裏の文字はドナが書いたものではない」という結論を見出したのは、作画も終盤になった頃です。
なのでこの漫画の中のドナは非常に攻撃性の薄い人格になっています。というか、攻撃的なハイゼンベルクに対し攻撃性の薄さで対抗する、という逆説的な闘いをしています。
私はこの漫画をとってもとってもと~~~っても滅茶苦茶最高に楽しく描きましたし、少ないページ数に押し込めてしまったものの、出来にも(少なくとも現時点では)結構満足できています。しかし漫画を描くという行為を通して彼女らのことをより深く理解したいと思いながらも、同時に彼女らの人格を偏狭な解釈に押し込んでしまうような苦しさもありました。二次創作全般に言える禍福ですね。
また、イーサン抜きの村のメンツで一定以上シリアスな物語を描こうとすると、全員多かれ少なかれ倫理観の箍が外れているので、軸を持ちながら周囲を見渡して「それはやっちゃだめだろ」と言ってくれる”良識の灯台”のような存在を設けられません。みんな狂ってスーパークレイジーパーティと洒落込むのも楽しいのですが、それも度を越すと読む側の精神的負担が嵩みます。
なのでキャラから倫理観の片鱗をちょっとだけ覗かせたい、でも品行方正になったらそのキャラじゃなくなっちゃう、というジレンマの中で許容できる態度を探る行為が、この漫画を描く過程そのものだったと思います。でも私も倫理に関してはどちらかといえば終わってる側の人間なので、アウトセーフの判定が上手くできている自信はありません。ごめん。
ともあれこの種のジレンマの中で、謎の多いドナ・ベネヴィエントという人物を、自分の都合で善玉っぽく描いてしまうことへの呵責が少しありました。なので「家族写真の裏の文字はドナが書いたものではない」という説が暗示する、彼女にも人を死に追いやりかねない嫉妬や、それに起因する攻撃性があるという人物像に正直安心したのです。他者を悪人だと決めつけることが暴力なら、他者をいたずらに聖化し、善人の美名に縛るのもまた暴力なのですから。
もっと危険な人間としての彼女も描いてみたいと今は思っています。
3.ドナとアンジーの自我の独立性について
※4/12追記
ドナはアンジーという人形の背後に控える黒子です。通常の世界観であれば人間と人形のコンビにおいて人間は操作する側であり、人形は操作される側です。しかしアンジーはドナからカドゥの株分けを受けており、自立歩行すらできる特殊な存在になっています。その振る舞いの自在さは貴族会議に引きずり出された、幻覚の影響下にないイーサンが見たものなので確かでしょう。
ドナとアンジーは同じ声優さんが演じてらっしゃいますが、彼女らの自我が各個独立したものであるかは謎であり、彼女ら自身が当事者として自我の有りようをどう捉えているかについてはさらなる謎です。
この項目では彼女たちの自我の独立性について貴重な材料を見つけたので書いておこうと思います。新たな発見があるかなと期待して英語音声・英語字幕でベネヴィエント邸に赴いた際に浮かんだ仮説です。
余談ですが英語音声版のドナの声はしゃがれていて結構怖いです。
ボス戦の"かくれんぼ"の3度目の攻撃における、アンジーの日本語版台詞です。
テメェふざけんな!
可愛いお人形ちゃんに何しやがんだよ!
とのお言葉です。続いて同シーンの英語版を見てみましょう。
Stupid idiot! What are you doing to my cute friends!?
どうでしょう。かなり印象の異なる台詞ですよね?
日本語版はアンジーが独立した自我として、自分を攻撃したイーサンを毒づいてるように聞こえます。自らを「可愛いお人形ちゃん」とふてぶてしく呼んでみせるそのさまが最高に可愛い、そんな台詞に私は聞こえていました。
しかし英語版では「my cute friends」を攻撃したことに激怒しています。つまりイーサンが攻撃した対象は、この台詞の発話者ではない(少なくともこのセリフの発話者だけではない)わけです。第2項で言及した「Take care of our little Rose」といい、所有格のはっきりした言語ってすごいですね。
また「friends」という複数形も気になります。イーサンはアンジー以外の人形に加害行為を行ってはいませんし、ベビーや仕込み武器搭載人形に襲われた際は為す術も無く死んだりダメージを受けたりしてしまいます。
英語版の台詞は、攻撃を受けたアンジーの背後で、イーサンに対してドナが激怒した台詞である、という印象が強いです。その印象から巻き戻って日本語版を見てみると、これもドナが発したものとして成立することがわかります。
しかしさらにややこしい要素があります。それは攻撃を受けたのがアンジーなのか、それともドナなのか不明瞭である、という点です。
3度目の攻撃を終えると、幻覚が解除され、玄関ホールに横たわるドナとアンジーが視界に現れます。素手に血を滴らせるイーサンの目の前で、ドナの身体は砂礫のように崩れていきますが、その傍らで沈黙しているアンジーには"かくれんぼ"中にハサミが突き立ち、カドゥから血さえ流したその痕跡がまるでありません。幻覚の中でドナがアンジーをかばい、代わりに攻撃を受けていた可能性があります。
こんがらがってきたので整理しましょう。
仮説1.アンジーが攻撃を受け、アンジーが毒づいている(自我独立)
△「my cute friends」の台詞と矛盾します。しかしイーサンがそれと意識せぬうちに幻覚支配下において他の「friends」を攻撃していた場合、成立します。
仮説2.アンジーが攻撃を受け、ドナが毒づいている(自我非独立。ドナがアンジーを操っている)
○最も矛盾が少ないです。しかし幻覚解除後アンジーが無傷であることに疑問は残ります。
仮説3.ドナが攻撃を受け、アンジーが毒づいている(自我独立)
△「可愛いお人形ちゃん」の台詞と矛盾します。
しかし……大穴ですが、アンジーがドナのことを「可愛いお人形ちゃん」と呼んでいる可能性があります。個人的趣味から言えばこの説をゴリ押ししたいところです。
ハイゼンベルクも工場内の壁に貼った相関図上で、ドナ単体の写真に「doll」という呼称を書き付けています(あの写真の出処、気になりますよね)。
仮説4.ドナが攻撃を受け、ドナが毒づいている(ドナが本体であるため、自我の独立性は検証不能)
×「可愛いお人形ちゃん」の台詞、「my cute friends」の台詞双方と矛盾します。ドナが自らを「可愛いお人形ちゃん」呼ばわりしてたらかなり強烈ですが……。
そんなわけで、俄然仮説3を贔屓にしたくなっている自分がいます。
仮説3における、人間であるドナを人形と見做してかつ好意的に接しているアンジー、それを受け入れているドナ、という関係性はなんともいじらしく思えます。安易な人間優位の感覚に毒されていない、平等で、フィクショナルで、少し寂しい、ベネヴィエント邸という小宇宙の中でだけ通用する特殊な関係性です。
この説を適用すると、アンジーをかばったドナが、幻覚の影響で暴れているイーサンに攻撃を受ける傍らで、アンジーがイーサンに激怒している情景が浮かびます。あまりにも悲痛です。
【余談】思考実験 ある日口が脳から独立したら
多くの人々は脳で思考したことを、口からの発話を通して他者に伝えます。
ドナは長らくアンジーを介してしか他者と交流を持っておらず、彼女にとってアンジーは、自分の思考を他者に伝えるための「口」の役割を果たしていたと言えるでしょう。
では、もしもある日突然自分の口が自我から独立し、気ままに喋るようになったら、人間は自分が思考していることと口が勝手に喋っていることを判別できるのでしょうか。ある人物を見て「この人嫌い」と声に出した時、心の底からその人物を嫌っていてその思いが自覚的に発話されたのか、深層に秘めていた自分も知らない嫌悪が口をついて出てきたのか、口から出た言葉を思考が追認してその人物を嫌うようになったのか、判別が難しい場合もあるでしょう。ただでさえ言葉は物事を限定し、心との齟齬を発生させるものですから。
アンジーが自我を獲得し、ドナの自我が希薄になった場合、人形と人形遣いの関係性が逆転し、アンジーがドナを操るおそれがあります。アンジーが好き勝手に発話したことを、ドナが「自分がアンジーに働きかけて発話させたのかもしれない」と勘違いし、思考が混線・侵食されてしまうおそれです。
別にそれでもいいじゃん、そもそも人類に自我など不要! という見解も妥当性はありますが、それはひとまず置いておきましょう。
内向的で社交をアンジーに任せているドナが自我を保てるか否かは、ドナをドナとして扱い、彼女とアンジーを分離して対話できる人物がいるかにかかっていると思います。孤独な人間も書物などに触れることで他者の見解に対する自我の反応を知ることはできますが、アンジーとともに生きているドナにとってひときわ重要なのは、声に出して行う対話ではないでしょうか。
自分の肉体の一部である口から、自分の声で発話することは「これはアンジーが勝手に言ったのだ」「これはアンジーという役を演じるために言ったのだ」という言い訳が利かないことを意味します。そこにはドナ個人としての責任が伴うのです。
多くの人々が日常的に行っている肉声での発話という行為は、実のところ水掛け論や言質の取り合いのリスクを孕んだ大変な重荷であり、それを忌避しようとするドナの姿勢は賢明と言っていいほどでしょう。しかしだからこそ私は、ドナがその重荷を背負いながら言葉を発し、自らで自らの輪郭を強めるさまを見聞きしたくてなりません。
他貴族たちが、仲良くするとまではいかないまでも、時折ドナ個人に話しかけ、ドナが彼女自身の声で応じるような機会があればいいな、と切に願います。
たすかります!