大人
雄平は春が嫌いだ。夏は冷房で暑さを凌げる。冬は暖房で寒さを越せる。秋は過ごしやすい。だけど、花粉はどうやっても防げない。
「ま、窓開けようか」
「花粉症ひどいのに無理してやらなくても」
雄平はすぐに床が見えない部屋を片付け始めた。麻子が部屋に入ってきたからだ。二十歳になった麻子は幼い姿から綺麗な女性へと変わったけれど、声色も顔の雰囲気も彼女の面影が残っている。
「ごめん、ベッドくらいしか座るとこないや」
「アポ無しで来たのはこっちだし、長居するわけじゃないから大丈夫だよ」
麻子はそう言って突然家に訪ねてきたことに対して謝りながら、雄平のベッドにダイブした。そんな謙虚な言動とわんぱくな行動を前にして、雄平は苦笑いした。
「そ、それで……き、今日はどんなご用で……」
人と接するのが久しぶりな雄平は、綺麗になった麻子を目の前にして、鼓動の高鳴りを押し殺して訊いた。
机の上に置きっぱなしにしていたグラスとペットボトルのお茶を持って、もてなしの準備をしようとした時だった。
インターホンが部屋中に響く。
「あ、ちょうど来たみたい」
階段を踏む音が徐々にだんだん大きくなってくる。雄平は、その足音が家族の誰でもないことに気づいた。
「光希くんが君と話したいって言ってたから、連れてきた」
麻子が部屋のドアを開けた。
「や、やぁ、元気?」
俺は指先に力が入らなくなった。グラスは床の上の物に当たって甲高い音と共に形を崩した。砕け散るような甲高い音は、雄平の心からも響いた。
中学の頃に憎くて覚えてしまった、五年経っても面影の残る顔。本人と確信するには、一秒も要さなかった。
雄平はグラスの事に目もくれず、無言で部屋に入ってきた光希を突き飛ばした。雄平にとっては中学生の時の仕返しのつもりだったが、受け身の姿勢が間に合わなかったようで、光希は部屋の外へ突き飛ばされた。
——ざまあみろ。こんな奴が俺と話がしたいわけがない。できるはずがない。
雄平は思いつく限りの罵詈雑言を光希に浴びせて、倒れている所にグラスの破片を投げつけた。
麻子は片腕を力の限り振って、部屋と廊下を隔絶した。
「は? ……なんで奴を庇うんだよ」
「落ち着いて!」
「答えろよ! なんでお前は奴を庇うんだよ!」
雄平は頬に一瞬の痛みを覚えた。
「君が成人式も同窓会も来ないから、光希くんがわざわざ家まで来て謝りに来たんじゃない! 話くらい聞いてよ!」
麻子の顔から笑顔が消えた。
——俺は仕返しをしただけだ。これでも足りないくらいだ。なんで俺が責められなきゃいけないんだ。
「……謝るだけかよ。奴が俺につけた傷を、謝るだけで済まそうってか⁉︎ お前らはいいよな、こっちのことなんか忘れて、呑気に高校も大学も行けてさ」
麻子は何かを諦めたような顔をして、そのまま部屋を出ていった。
——本当になんなんだ。麻子はただ俺に会いに来たんじゃなかったのかよ……。
床にガラクタが転がる部屋に音が消えた。いつもの日常に戻った。鼻水はその時まで治っていた。
直後に雄平は鼻水の出る勢いが強まっていることに気づき、さっきまで窓を開けていたことを思い出した。
雄平は窓の外を見た。頬に傷がついた光希と麻子が立っていた、光希は傷口から血が垂れていた。ちょうど麻子が、自分のハンカチを光希の頬に押し当てていたところだった。
——また奪われた。やっぱり奴は俺から奪うことしか脳にないクソだ。俺をダシにして、今度は麻子を奪ったんだ。
雄平にとって、麻子が敵になった。
——俺にはもう味方はいない。この世の全てが俺の敵なのだと。
雄平はベッドを見た。麻子が数分前まで寝たベッドだ。
毛布に顔を当てて、深く呼吸をする。普段感じる事のない香りが、雄平の鼻筋を通って消えた。
——花粉症に効き目がありそうだ。
香りは呼吸するごとに薄まっていく。花粉症じゃなければもっとよく吸えたのではないか。ティッシュの箱はもう何箱開けただろうか。ゴミ箱は雪山のようになった。
頭の中で、光希の顔がまた浮かんできたことが不愉快この上なくて、野球道具を全部部屋の外へ投げ捨てた。
涙が止まらなくなった。これも花粉症のせいだ。きっとそうに違いない。