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ポーラ美術館訪問より 「芸術とは何か?」

こんちゃ、あびとぱです。

今回はポーラ美術館にお邪魔する機会があったので、行ってきた感想を残しておきたいと思います。noteに残す意義があるほどに素晴らしく、今後の糧にしていきたいと思えました。
訪問機会を頂いたのは 儒烏風亭らでん さんの推し語り配信↓

中学時代、美術の成績常時2の人間による、的外れな美術作品考察始めます。9,000文字を越えますので、ゆったりと寛ぎながら読み進めてもらえると嬉しいです。
(美術の教養や一般常識の欠如が著しい素人よりお送りいたします)


【 フィリップ・パレーノ展 】


まず、最初に基本情報を共有しておきます。
フィリップ・パレーノ展は展示室1,2,5で開催されています。2024年12/1まで行っているらしいので、行ける人は行ってみてください。

今回は3つの展示全てが素晴らしい出来だと感じたので、それぞれ何が素晴らしいと感じたのか紹介していきたいと思います。

【 展示室 1 : 〈 私の部屋は金魚鉢 〉 】

この展示では、魚のオブジェが宙に浮いている様を見ることができます。↓

展示室内の様子

爽やかな感じの緑の木々が窓の奥に見えると思いますが、部屋中を魚が飛び回る環境にいたために 木 =海藻 と同一視することができるような感覚さえ抱きました。
また、上の写真において、偶然面白いものを見つけました。
左の方で2匹がヒソヒソ話をしていたので、追いかけてみました。↓

2匹の魚の様子

これを撮れた時、「WAO !!」という感情が湧き起こりました。
それは群れから離れ、誰もいない場所で逢瀬をする人間のような瞬間を目撃することができたからです。そして、これを偶然遭遇できたことも運が良かったという感覚が強いです。
そういう意味で、他者との関係性の偶然性によって作り出されるアートの凄さに感嘆してました。

他にも下のような写真を撮ってきました。

別の魚の様子

壁の上の隙間で2匹が向き合っているのは「宮本武蔵 vs 佐々木小次郎」の一騎打ちのような緊張感すら演出することができていました。

多くの魚のいる中で、どの魚に目をつけるか、2匹の魚の関係性を推察するのか、3匹なのか、4匹なのか。
そうやって、関係性から何か物語を綴るように想像を凝らすことが楽しいアートです。

最後の一枚は恐怖を抱きました。
同種の仲間3匹に何か悪戯をして去っていく悪役のような構図です。↓


別の立ち位置からの写真

そういう意味で、時間経過による魚たちの予測不能な移動と、鑑賞者の魚たちの関係性の法則に気づく能力、鑑賞者の立ち位置などの条件で面白さが跳ね上がる素晴らしいコンセプトの作品です。

【 展示室 5 】

本当に申し訳ないのですが、この展示室の展示名を押さえるのを忘れていました。行ってみて確認してみてください。(簡単に調べてみたけど、分からなかった(´・_・`)

というわけで、内容について話していきます。
この展示室に入って展示をざっと眺めている時の感想は「??? 」でした。
本当に何を意図した展示なのか理解不能でした。↓

絵が壁に飾られ、その前に特殊なガラスがあることで不規則に展示が見えなくなるという仕組みを取っているようです。
「なんでそんなことを?」って感じですよね。
仕方なく、解説文を読みにいきます。
解説文曰く、ざっくりと説明すると展示そのものが「予知夢」の働きをしているとのこと。
絵は通常、過去をアーカイブするものであるが、このパレーノ氏の展示は未来をアーカイブするものであるという記述がされていました。
それで私は「………..!!!!!」となっていました。
正直、この動画だけでは、何を意図しているのか意味不明ですが、それを踏まえた上で夢を見ているように展示を見ていくと凄く面白い。

夢は見れる時もあれば、見れない時もある。そして、見れたと思ったら起きることでその夢の内容を忘れてしまう。そんな経験を見事に表すことができています。
展示の特性故にじっくりと細部まで見て分析するというスタイルの芸術ではありません。しかし、その上で、いつまで見れるか、待てば良いのかということを不確実にすることで未来を描くことに成功しており、予知夢のような鑑賞体験を行うことができました。
このアイデアは凄い。是非、足を運んで堪能してみてください。

【 展示室 2 】

こちらも展示の名前が分からず、番号ですみません。
ここの展示は至ってシンプルです。
下のような形で部屋が埋め尽くされ、室内には一枚の絵画と文書のみが貼り出されているという作りです。

展示室 2 の様子

初見では「は…..?」って感じですよね。私がそうでした。
また、解説に頼ります。
どうやら、金のオブジェは「蛍」を想像して展示を作ったそうです。
しかし、なぜ蛍?という感じです。
解説には文明発達に伴う環境変化により、蛍が急激に減っているとのこと
その事実にインスパイアされて作ったようです。

この作品において、個人的に凄い皮肉が混じられているなと思いました。
通常、ポーラ美術館の営業時間は ~17:00 までとされており、蛍が見れるほど暗くない時間に終わってしまいます。それを美術館に展示することで見るというのは一種の諦めであり、挑戦でもあり、そうでもしないと蛍を認識しない、またはしようともしない私たちに対するテーゼでもあるように感じました。
そんなことを思いながらニヤニヤして面白いなと思いながら展示室2は回っていました。
ただ、提案というか、改善の余地があるかもなと思った点が一つ
蛍 = 暗い中で光る生物 とするのなら、天井に明かりをつけるのではなく、床に明かりを埋め込むなどする方が芸術作品として完璧に近いのではないかと思いました。もちろん、常設展ではないので、建物の建築上の問題は仕方ないですが。

それを抜きにしてもコンセプト自体は素晴らしく、1,2,5全ての展示において考え抜かれている作品だと思いました。

【 常設展 】

ここからはポーラ美術館保有の美術作品について面白いと思ったものを見ていきます。


【 抽象絵画 】

まずはこちら↓

ゲルハルト・リヒター 抽象絵画(649-2) 1987年 油彩/カンヴァス

正直、初見の私からしたらナンジャコリャ状態なんですが、一番特徴的な真ん中上部から左下に流れるような灰色の直線が最も印象的に見えます。
現実の比喩と仮定して考察を行うとすると、これに心当たりをつけるとすれば、描かれた年代を考慮すると「鉄道」でしょうか。また、それを横切るように水色も見えます。川の上を橋を使い鉄道が走っていると考えるのが妥当です。上部の方を注目すると緑色で多く描かれている様が感じられるので、「田舎」を表しているとしたら、その色がなくなっている下部の方は「都市」にあたるのかもしれません。中央 〜 右側には赤色が見え、中央下部付近には白色が見えますから、火災が起き、それの煙が立っていると解釈するのが良いでしょう。ただ、この通りの解釈だと、川と火災が混じっているような絵の解釈になってしまいます。それとも、川の水を利用することで中心地帯から消火活動をしていたと解釈するのが妥当でしょうか。

このように一つの絵を見るだけでも現実と絵の比較。今と過去の文明レベルから来るギャップには面白さが眠っているなと1枚目から感じました。その上、よく分からない絵すぎるので、これが何を表しているのかと考え抜くことが凄く面白かったです。
実物を見て、自分なりの答えを探すのも趣があり面白いと思いますので、感想があれば教えてください。


【 睡蓮の池 】

次は無知な僕でも知っている かの有名な「クロード・モネ」からです。↓

クロード・モネ 睡蓮の池 1899年 油彩/カンヴァス

正直、これを見た時も「はわわ〜〜 キレイ〜〜」くらいの感想しか持てませんでした。しかし、よく見ていくと面白いことに気づきました。↓

睡蓮の池の左上付近の拡大

いや、ナニコレ。シミュラクラ現象の亜種と考えて良いレベルの誤差なのか、それとも意図的にモネが仕組んだものなのか。気になる気になりすぎる!!!
これ妖精みたいなのがいますよね!? 絶対いますよね!?
そんなことを考えながら「面白いことをしてくれるやん、モネやるやん」
とかそんなことを頭の中でモネと会話してニヤニヤとしてました。(キショ)


【 国会議事堂、バラ色のシンフォニー 】

次はこちら↓

クロード・モネ 国会議事堂、バラ色のシンフォニー 1900年 油彩/カンヴァス

こちらは淡い感じで良いねぇと思ったのですが、またまた何か違和感を発見しました。今回は2箇所。連続で見せます。↓

原画の左側の建物と川の拡大


原画の右下の拡大

1枚目は私自身もそこまで気に留めなくても良いかなと思っていたりするのですが、真ん中の一番高い建物の水面に映る影はキレイに、そして一番左の建物の影も水面にしっかりと映っていますが、その2つに挟まれる建物の影が凄く変です。高さが足りない上に、しっかりと描かれていない感じが。もちろん、これは霧の影響なども存在するでしょうが、現実なはずなのに現実でないような気がする違和感の種を上手く作品に入れてくれるあたりが「モネの魅力」なのかなと思えました。

そして、2枚目ですが、これになぜ違和感を抱いたかというと、魚写っているなぁと感じたからです。んで、それをなぜ描いたのかということを調査も含めて考察してみました。
ヒントは以下の記事かなと思います。↓

この作品のモチーフとなっているテムズ河は1900年頃は大悪臭であると考えられ、その環境で生きている魚が少なかったのではと推察されます。その魚を淡く描いているのは霧故の現実をただ描いたのか、それとも霧を使った幻想を描いているのか。当時を知らない私としては、この調べるという行為も含めて凄く面白い作品になっているなと思いました。

【 セーヌ河の日没、冬 】

またもやクロード・モネです。この人は結構作品の中で隠し事しているみたいで面白いです。↓

クロード・モネ セーヌ河の日没、冬 1880年 油彩/カンヴァス

印象的なのは中央の太陽と目の前の川と遠くに見える家々ですね。
初見で見た時は、川の流れが太陽の方に流れているかのようにも見え、少し混乱しましたが、奥の方に見えるのは川ではなく、水たまりですかね。

ここまでクロード・モネには面白いものが眠っていますから、それをもう一度探そうとしたのが、川と太陽の関係です。
太陽は必ず東から出て西に沈みます。その関係と川の流れている方向を一度整理してみようと思いました。
そこで一度、川について調べてみることに。以下の記事を参考にしたところ川の形状が凄く分かりやすかったです。

東西南北で言うと、北西と南東を結ぶようにして存在しているようです。
しかし、ここで一つ疑問が生じます。
描かれ方的に「太陽の沈む先(東)と川が垂直である」と言うことです。
もちろん、川が完全に東の方向に垂直になる地点がないかと言われれば、そんなことはないと言えてしまいますが、それでも見たものをそのまま描いたのかと疑問を持つようなものになっていました。

まとめると、絵の中に何かしたらヒントをくれているモネは面白いものくれている印象です。じっくり考える時間と機会をくれるだけで美術館に行く価値があるなぁと。


【 グランカンの干潮 】

ここからはモネから離れてコレ↓

ジョルジュ・スーラ グランカンの干潮 1885年 油彩/カンヴァス

キレイだなぁと思いつつ詳細に見ていきます。私が気になったのは以下の点くらい。

原画の左側の拡大

またもや、なんかいるシリーズ。船が漂着船であることから推察すると、漂流者の成れの果てと考えるのが妥当でしょうか(幽霊?)。そして、その船を調べているのは漂流船の第一発見者で、小さい船によってたどり着いたと考えるべきでしょう。そして、後ろから迫っている船も、小さい船で嵐か何かを生き延びた船なのかもしれません。


【 海辺の母子像 】

最後の作品考察です。ここまで長かった気がする。(でも面白い)
と言うわけで最後は本名がアホ長いことで有名なピカソの作品です。
撮影禁止作品であったため写真なしでの紹介です。(気になる人は調べてみてください)

この作品を見た時の感想は「左側に見えるサメみたいなの2匹は何?」ってことと「女性ってもしかして3人子供連れているんじゃ?」という疑問を持ちました。

前者のことについて少し調べてみたところ、船であることを知り、失笑してしまいました。改めて見ると船の先端がサメの背鰭に見えていたみたいです。全くなんて見方をしているのか….w
と言うことで、前者は解決。船の実体と水面の反射により、それらが描かれていたと。

後者の疑問に関してですが、これも解釈の部分であり、答えのないものですが、個人的には「抱いている赤子一人」「女性の左肩に捕まっている赤子一人(羽織っている布団みたいなやつの形状が赤子)」「お腹にもう一人いる説(羽織った布団が左腕で盛り上がっていることでお腹の大きさを隠している)」の3人です。
これを現実として捉えるのであれば、左肩に見える子供を除き「女性の子供は2人」と考えるのが最大かもしれません。
また、これを考えているとき、コレがアホな考察であるとしても、「左肩の子供の形 → 他に子供はいないか探す行為 → 探してもいない → お腹にいるのではという疑問」の流れを意図してか、偶然として描かれたものなのかは不明ですが、この視線誘導というか思考誘導は気持ち良すぎました。
まぁ、その意図のみはピカソの頭の中にしかありませんが、そのようなことを解釈できる作品を作り出すことは本当に素晴らしいなと絵画を見ていて思いました。


【 美術館としてのポーラ美術館の素晴らしさ 】

私が今まで紹介した作品を詳細に(当社比)分析することができているのは間違いなく、ポーラ美術館の素晴らしさが原因にあります。それを次は考察していきます。


【 美術館というアート作品 】

美術館に行ったことがある人ならポーラ美術館に対して絶対に驚くと思う点が3点ほどあります。

一つ目は自然と建物の融合が自然であること。自然というか自然の中に人工物が飲み込まれた結果、自然に見えるという見方もできるかもしれないです。

ポーラ美術館入口
入口の橋の左手に見える美術作品

しかし、それだけではなく、白の壁面とガラスによる建築は自然との相性が良いと思いました。
撮っていた写真だけじゃ伝わり切らん!! ぜひ足を運んでくれ!

二つ目は建物がシンプルに綺麗
今まで入った建物の中で1,2を争うほどに未来を感じるような作りをしていた。国立西洋美術館は高級感のある綺麗さをしているが、こちらは本当に未来という感じ。身近でいうと大学のオープンキャンパスに訪れたような感覚です。高校時代に明治大学の中野キャンパスに一度お邪魔したことがあるのですが、それを感じさせるほど綺麗でした。ちなみに明治大学の中野キャンパスは現在で築11年の最新施設らしいので、一度いけるときに行ける人は行ってみてください。高校生ながらあの建築美には驚かされ記憶に凄く残っています。
特に似ている点が階層が吹き抜けになっており、広々として開放感があることです。とにかく行ってください。

三つ目は展示数の少なさです。これが本当に良かった。私のような考えしいな人間にはドンピシャな美術館であると言えます。今まで考察してきたようなことを何も考えずに回るのなら1時間超で回れるほどのボリュームしかありませんが(国立西洋美術館などは展示数がアホ多い)、それが良さに繋がりじっくり考えながら見るということができる。そして、展示数を少なくしている中でも美術館側の意図のようなものを感じました。クロード・モネがわかりやすいです。美術館側の配慮、意図により彼の作風を理解する一助になっていることは間違い無いです。今まで「美術館巡りってそんなに面白く無いなぁ」とか思っていたにも関わらず、正直ポーラ美術館は推しになったかもしれません。それほど作品の深淵を覗く手伝いをしてくれた美術館には感謝しています(ポーラ美術館と来訪者の関係性 = ミステリー作家とミステリーを解こうと躍起になる読者の関係性 に近いと感じました)。故にみんなポーラ美術館に行こう。


【 芸術とは何か? 】

今回の美術館巡りによって、芸術とは何なのか?と考えさせられる機会となりました。作者が「こうだ!!」と押し付けたものが芸術とは言えない。と今回の体験から感じました。では、芸術とは何なのか?

「創作者にとっての芸術 = 自分の意図を隠し伝えるもの」

「受け手にとっての芸術 = 創作者の隠した意図と意図しない偶然性を探すもの」

個人的な解釈では、このような着地点です。
創作者は自分の秘めている意図を全人類に投げかけ、自分の創作者としての力量を試すという意味を持ち、受け手は作品を自由な発想により解き明かしたり、創作者を驚かせることのできるような発見をすることにより楽しむ。という一種のゲームをしているのではないかと思いました。
それはミステリーで見られる構図と全く同じで面白いと思いました。


【 最後に 】

本当に長い上に的外れなことを言っていると考えられる文をここまで耐えて読んでくださった方には感謝いたします。もし、ここまでじっくりと読んでいるにも関わらず、ポーラ美術館に訪れていないという方がいたら、私がここまで熱量高く長文で解説してオススメしている理由を一考に入れた上で、行く判断をして貰えると嬉しいです。

そして、私の解釈というものは凄く穴のあるものであり、一側面でしか語ることが出来ていません。なので、これを頭に入れた上で、別の見方がないか模索して欲しいです。


【 〜蛇足編1〜 旅行する意味とは? 】

正直、旅行って行くの面倒臭いですよね。私は出来れば家の近郊だけで生きていきたい人間なので、旅行に行くことが面倒臭いと感じる上に「行く意味ないんじゃね」とか考えてしまう人間です。

しかし、今回の旅行で心境の変化が訪れました。もちろん行くことは面倒臭いですが。
では、私が出した答えとは何なのか

「旅行 = 独自性 と 世の正解との差異 を作るため」

こういうものです。今まで「偶然のものを見つけて視野を広げることが大切」みたいなことを言う人を目にはしていたのですが、それでは言葉足らずであると感じました。
旅において最も大切なのは「気付く」という人生の財産になってくれる体験をすることにあると思います。偶然のものを見つけるというのは「気付く」という行為をするための条件であり、大切なことが抜けています。
「何かを注視すること or 観察すること」
コレが多分、私含め全人類足りていない。↓の通りです。

この知識の習得には、モーパッサンが小説を書く勉強法としてある先輩の作家からすすめられたプロセスに似たところがある。〈パリの街頭に出かけてゆきたまえ〉とモーパッサンはその作家から教えられた。〈そして一人のタクシーの運転手をつかまえることだ。その男には他のどの運転手ともちがったところなどないように君にはみえる。しかし君の描写によって、この男がこの世界中の他のどの運転手ともちがった一人の独自の人物にみえるようになるまで、君はこの男を研究しなければいけない。〉

ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」より

知識習得に必要なのは注視。そして、知識を得るためには考えて気付く、そして研究するという行為が必要です。

誰かが見たことのあるような景色、ネットで見れる景色
その中で起こるような偶然の出来事をサラッと経験したところで対して、大きく世界の見方が変わるわけではないと感じます。もちろん、世界に対して感じている認知のズレを修正する程度のことは起きると思います。が、もっと良い体験を求めるのであれば、それを観察し、詳細に分析することが何かに「気付く」という体験が必要になるのではないでしょうか

その上で、私は 誰も行かない世界に行くこと がオススメなのではないかと思います。誰もいない世界で見つける発見と「気付き」は独自性に繋がり、真の意味で平均化されない特別な経験となります。

んで、独自性を原理に注目してテクニックを導き出すのは良いが、それが何の役に立つのか気になるのが人だと思います。
「気付き」が独自性を作るのだとしたら、その気付きを使ってアウトプットすることで「世の正解との差異」を作ってくれるのではないかと思います。
このnoteも独自性から派生した「世の正解との差異」であると思っています。(私は美術関係の人間では全くないので、アホなことを考察している自覚があります)

んで、今回、note以外にも認識を修正する程度ではなく、文字通り変えてくれたことについて紹介します。↓

道の駅 箱根峠 付近の遊歩道で見かけた景色

この写真は道の駅 箱根峠で撮影した写真なのですが、見ての通り面白い状況になっています。
そして、私が1時間半ほど木々と睨めっこしていた結果、この状況を見た人間は一人もいませんでした。(客観的に見ると暇人)
つまり、何が言いたいのかというとチャンスというのは身近に転がっているため、有名地にいき観光スポットを巡るだけが旅の楽しみ方ではないということを教わりました。
んで、これで何が変わったのかというと芸術の在り方について考えさせられました。
具体的には写真の含めた「芸術性」を隠すために述べませんが、写真を撮る際に見た景色をそのまま撮るのではなく、目に映る対象に対して何かの比喩的な役割を与え、他の対象にも役割を拡大していき、その結果何をどのように切り取り、構図とすれば良いかということを考えた結果、ピッタリとハマった瞬間がこの一枚です。これ以上は言えませんが、この体験をすることができる人がいたら多分わかってくれるはず(知らんけど)

というわけで、そのような写真を撮るという体験をしたことで旅の途中での行動の認識が変化しました。という話でした。

皆さんの旅する理由は何ですか?


【 〜蛇足編2〜 美術館訪問で大切なこと 】

今回久しぶりに美術館に訪問してみて感じたことがあります。

「自由に発想すること」

コレが何よりも大切な気がしました。何かを考えなくては美術館に行くという行為は最大限楽しめないものなような気がしました。数ヶ月前の私はその状態でした。何となく作品を見て、作品の色使いでどのようなのが好みか、そしてどんな構図が好きなのかばかりを追っていました。
ですが、最近読んだ 「13歳からのアート思考」という本を読んだことにより少しだけ美術館に対する見方を変えました。
そこに込められた意味を素人ながらアホな発想でも良いので答えを出してみて、それを事実と照らしながら見つめていく。その行為自体が大切なのだと痛感したからです。読んでない人は読んでください。必須図書です。

また、その中で私の中で大切なことを見つけました。
なぜなら、自由に発想しろと言われたところで正直無理です。
子供のように考えるにはどうすれば良いか。
頭を悪くすれば良いです。
ではどうするか?

「意図的に適度な寝不足状態にして午前中から美術館に潜る」

コレが最適解な気がします。酒を飲んで頭おかしくして美術館に行くのも悪くはないかもしれませんが、自制心が逝ってしまうのは美術作品に触れる上で推奨しないので、睡眠を8時間 → 6時間に削ることにより自分の体調を意図的に崩して、子供のようなアホな発想をしようという話です。
アホなことを言っていることは承知ですが、その方が変に真面目に絵を捉えず、頭は妙に回り、普通の見方でない絵の見方ができます(海辺の母子像で 船 = サメと捉えていた私が保証します)。
このような頭の悪いテクニックも駆使してみたらいかがでしょうか。

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