私がこれまで会った中で1番粗忽な人。

私が日々の暮らしの中で粗忽者や粗忽な行為と出会した場合一つの判断基準で分類している。それはその行為に悪意があるかどうかです。悪意有る粗忽者というものには毅然とした態度で然るべき対応を行わなけれなりません。そうでなければ受け手が不快な思いをしたり実害を被るものなのですから。自己完結した悪意有る粗忽者というものに関しましては「触らぬ神に祟りナシ」つまるところの「お好きに自滅しなさすって」という訳です。しかし悪意無き粗忽者、これが厄介なのです。何故なら悪意が無いが故に当人は必死に正義を盾に突っ込んで参りますし受け手がそれを責めようもなのならこちらの気分が悪い。

 では本題に入るといたしましょう。
粗忽者を語るのであれば彼女の右に出る者はそうそう居ないでしょう。また辞書で「粗忽者」と引けば彼女の名前が記載されているに違いない笑ここではそんな彼女のエピソードをお一つ紹介いたしましましょう。

 ある時、彼女は長年愛用していた眼鏡を無くしてしまったのです。「丁度良い機会だから」と新調する事になり仕事帰りの道すがら眼鏡屋に立ち寄ったのです。私は自宅で暇をしていたので彼女と電話を繋ぎ眼鏡選びに加わる事にしました。しばらくして4枚の写真が私の携帯に送られてきました。どれもパッと見たところの印象は同じように感じます。がしかし、よく見ると絶妙に違いのある眼鏡達なのです。サイドのさりげない装飾、少し丸みがかったフレーム、つるが鼈甲だったりとするのです。どれも良い。そう思っていると追加の写真がもう数枚。結果的に2時間強の時間をかけて文句無しの眼鏡を彼女は手に入れたのです。眼鏡屋を出てからの彼女の帰宅路は市営バス。市営バスの中では小声で「良い眼鏡が見つかってよかったね」「めちゃくちゃ悩んだね」そんな談笑を交えておりました。市営バスを降りていくばくか歩みを進めた辺りで突如、携帯越しに鳴り響いたのは「買った眼鏡がない、、」の悲鳴。うむうむやはり彼女は天才なのだ無くし物の、悪意なき粗忽の天才。
眼鏡の行方と結末につきましては読者諸君のご想像におまかせするといたしましょう。

 思い返してみると私の母も悪意なき粗忽の手練れであった。その母を父はいつも鼻先で笑う反面その振り向き様はいつも穏やかであった。悪意なき粗忽者には寛大な心で順次対応を行えば多少の無駄金と時間を代償に幸せな気持ちを抱く事ができるのやもしれない。

                久利多ジン郎

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