最近は、本屋に並んだ小説に辟易してたから

 あんまり、何かの感想を書くとか苦手なので、支離滅裂になると思うけど、わたしも描かねば、と思ったので書こうと思う。

 ついでに言うと、こういうときの礼儀作法も知らないから、好きに書いてしまうけど、お名前を出したみなさま、勝手に書いてごめんなさい。

 このお話を読んだ。

 ずっと、本屋で新しいわくわくする世界に出会えなくて、もやもやしていたから、久しぶりにすごくよい時間を過ごさせていただいた。

 出会わせてくれたすべての方々に感謝を伝えたい。
 そして、もちろん、お話を書いてくださった、作者の方、それを支えた方々に。


経緯はこうです

 ある日、noteから、この記事を読めと言われる。

 ぱちこも、絵を描いたり描かなかったりするから、なんとなく読んだ。
 髪を乾かしながら。

 そして、ユウコチカさんに興味を抱いたので、Xでストーキングしようと思った。
 いや、なんか面白そうな人アンテナが働いて……。

 そしたら、ユウコチカさんが、この記事をおすすめされていらっしゃった。
 ユウコチカさんが面白いというなら、絶対に面白いだろうと思った。
 ちなみに、そんな言うといて、たいしてストーキングしてはないから、ユウコチカさんのことはよく知らない。ごめんなさい、ほんとごめんなさい。

 間違いなく面白かった。
 一瞬で、このミーミさんのことが大好きになった。
 あまりにも好きなので、うっかりコメントを残してしまったりしたが、わたしのnoteと言ったら、最近、占いしか書いていないので、下手をしたら、変な占いおばさんに絡まれた、とキモがられるかもしれない。
 なので、もっとひっそり木立のかげから見守ろうと思った。(そっちのがキモいと書いていて思った)

 そんなある日、今度はミーミーさんが大変よいお話がある、と書いていらっしゃった。

 これは、絶対によいお話に違いない。ミーミーさんが言うんだから、間違いない。だってあのミーミーさんだよ、あのミーミーさんに勧められたら読むしかないじゃない。
 すみません。ミーミーさんのことも言うほど存じません。でも、ぱちこの脳内ではそう思ったんだから仕方がない。

よい作品とは何か

 わたしは、幼少の頃から、自分も何やらかにやら創作し、あれやこれやと鑑賞して暮らしてきた。

 本も読むし、音楽も聴く。美術品を眺めてまわるのもよい。
 それらは全て、子供の頃に、親があちこち連れて回って体験させてくれたおかげなのだが、感想とか蘊蓄とか、果ては作者の名前などは、さっぱりわからない。
 わたしが、本が好き、クラシック音楽が好き、絵が好き、というと、たいていの相手は、誰が好きか、どういうのが好きか、自分はこれこれあれそれの誰それがどうこうで、と、よくわからないことを話し始める。
 わたしは、半笑いで、はあ、そうなのですか、へえ、と気のない返事をするしかない。

 わたしが思う、よい作品というのは、相手の創作意欲を掻き立てるもののことだ。

 それが、小説でも、歌でも、彫刻でもいい。何を受け取って、何を生み出すか、その手段や方法は問題ではない。
 ただ、自分も表現したい、しなければ、と、思わせるものこそ、自分にとってのよい作品なのだ。

 そう、自分にとっての。

 芸術は、作り手と受け手の対話だと思う。別に、一人で呟いていてもよいと思うし、だけれども、時や距離を越えて、どこかで誰かが、受け取るのが、よいと思う。
 そういう意味ではまあ、蘊蓄を述べてもらっても、構わないのかもしれないけれど。
 相手の心を揺さぶることができたなら、きっと、その誰かも何かを伝えなくてはならない気持ちになるはずだから。

 早時期仮名子さんの「針を置いたらあの海へ」は、そういう意味で、すごくよい作品だった。わたしにとっての。

占いとお話は似ている

 わたしは、編み物も大好きで、絵もそれなりに描いてみたりする。
 そんなところとか、人とはうまく接することができなくて、距離感に戸惑ってしまうところとか、高校生だったのはもう四半世紀も前のことだけれど、妙に自分と合わせて読んでしまうところがあった。

 特にここ最近は、ひどく現実的な人々の群れに放り込まれて、わたしの世界が死に絶える寸前まで傷ついた。ずっと、創作活動をしていたときは、いつだって、自分らしさが求められていたのに、この現実的な人々の群れでは、他者と常に同じであることを強要される。普通、でなくてはならず、特殊であることは、罪であり、卑しいことであり、愚かで低俗なことだとされていた。

 だからこそ、このお話は、わたしの心を動かした。

 人と違うこととか、目立つこととか、それを否定も肯定もされなかった。そこがすごく安心した。人と同じでなくてはならない、と言われても、人と違っていることが美徳だと言われても、今のわたしは傷ついたと思う。でも、そのどちらでもなく、ただある、ということだけを浮き彫りにしたお話だった。それが、すごく嬉しかった。変な言い方だけど。

 それで、占いとお話は似ている、と思ったのだ。

 占いは、あれこれたくさんのことを言う。特に、個人を特定した占いではない場合、ふんわりと限定しない言い方をする。そうすると、なんとなく当たっているような、言い当てられたような気持ちになるのだ。

 お話も、こうして、主人公や登場人物と、どこかちいさな部分でも、自分を重ねて読む。そして、自分ではない誰かが、お話の中で、成長したり勇気を出して踏み出したりすることで、あたかも自分も同じように進んだような気持ちになることができるのだ。
 現実には、無理かもしれないけれど。

 わたしは、ずっと自分らしさが何か、どうすれば自分らしくいられるのか、そればかり考えて生きてきた。
 このお話を読んで思ったのは、わたしはもっと、力を抜いていいし、誰かに遠慮なんてしなくていいんじゃないかなってことだ。

 だからもしかしたら、ずっと長いこと、お話を書くことができなかったけれど、自分だけのために、誰かに褒められたり、うまく書くためじゃなくて、本当に表現したいことが、書けるんじゃないかなって、そんな気持ちになった。

ここが好き

 ネタバレになってしまうかもしれないけど。

 フェアアイルニットを完成させる最後の工程を回想したシーンで

 恥ずかしくはある。ただ、無意識のうちに俺は、大切だと思う気持ちを、行動として現していた。そういう自分に奇妙な信頼を感じた。

針を置いたらあの海へより

というところ。

 わたしの好きなGARNET CROWの歌で、「愛だとか恋だなんて形あるものじゃなく」ってのがあるのだけれど、ちょうどそんな感じだった。
 もっと、愛だとか恋だとかに言及されてたら、途中で読むのやめたかもしれない。
 そういうことではなく、もっと自然な、言葉では簡単には言えない、人と人との関係みたいな、そんな感じが、すごくよかった。

 もう一つは、物語の語られ方や、些細な描写がとても好き。
 なんとなく、海外の文学に近い匂いがする。日本の小説はここ最近、読者の時短を気にしてくれているのか、あちこちざっくりしていて、味気ない。ストーリーは面白く進むのだが、結局心には残らないし、あっという間に読み終えて、空虚になる。

 でも、このお話には、細部まで丁寧に登場人物のことが書かれていて、だから、このとき、レオは自分の気持ちを知らないうちに体現していたことに気がついたけれど、たっちゃんさんは、もっと前に、同じようなことをしているよなあって、後になって考えた。
 たっちゃんさんは、このことを聞いたとき、そして、レオに伝えたとき、どう思ったんだろうって。

 そんな風に、読み終えた後に、読み去った世界の人々について想いを巡らすのは久しぶりだった。そこがすごく嬉しい。
 それは、小さなお話の端々にあるエピソードの一つひとつが、たとえ、本筋のお話に実際に影響しないことであっても、手を抜かれずに描かれたからだと思う。

 わたしの目は、レオとは反対に、かなり高度に色を見分けることができる。それなのに、どういう仕組みなのかは知らないが、頭の中で想像するとき、色をつけることができない。夢を見るときも、白黒かセピア色だし、何かを思い出しても形しか思い出せない。
 だからこそかな、レオが見た花火や、フェアアイルの色が、よく分かる。色なんて見えなくても、花火のまるいかたちは、美しいと思う。
 そして、その、色の部分を、たっちゃんさんが、丁寧に表現してくれたから、頭じゃなくて心で色を感じられた。色って、心で感じると、感動するんだなあって、初めて気がついた。

終わりに

 本当に支離滅裂になったけど、ここで終わりにする。
 でも、この前、しいたけさんが、天秤座はよいことはよい、悪いことは悪いってちゃんと言うんだよって書いてあったから、これでよいと思う。

 早時期さんの他の記事も読ませていただいて、その中に、ペンネームに言及されていた部分があったけど、わたしは、早時期さんが別のお名前だったら読まなかった。
 もっと普通のお名前だったら、ふーん、で通り過ぎたかも。
 よい時間を、どうもありがとうございます。

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フジ笑八コ(ぱちこ⭐︎)
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