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昔電車で、今ランナー

月曜夜から3泊4日の旅程で愛知県豊田市に滞在する出張がルーティーンになっている。ホテルは会社指定の定宿で丘の上にあり、東西南北どの方角に走っても一旦坂を下らないと平坦な道がない。夕食のために飲食店まで走る前提だと、北へまっすぐ国道沿いを走るか、西へ走り駅周辺に行くかになるのだけれど、どちらも割と栄えているためか信号が多くランニングのリズムが作りにくい。ランニングついでの夕食をあきらめ、田園風景の広がる南へ向かってみたところきれいに舗装整備された歩行者専用の道路を見つけることができた。ほぼ平坦な道で信号もなく、まさにランニングにはうってつけだ。そのまま南に走ると、丘の麓から矢作川(の手前で高速道路に分断されているが)に向けてまっすぐ伸びている。この歩道の少し西側には岡崎市の中心部(≒国道1号線)と豊田市の中心部(≒トヨタ自動車)を結ぶ国道248号線がありそれとほぼ平行の道だ。試しに逆方向に走ってみると、丘を回り込むように西に曲がり、248号線と交差する(片側2車線の国道をまたぐ歩道橋で横断する)。そのまま歩を進めていくと住宅街を緩やかなカーブで抜け愛知環状鉄道、三河豊田駅の裏手まで道が伸びていた。
僕と同じようにランニングを趣味としている地元出身の60代の方と会話をしているなかで滞在中のランニングルートを尋ねられたので上記のルートを説明すると、その歩道は名鉄旧拳母線の廃線跡が遊歩道として整備された公園だと教えられた。拳母線のは岡崎市内にかつて存在した路面電車、岡崎市内線の終点大樹寺駅から現在も三河線にその姿を残す上挙母駅までをつなぐ名古屋鉄道の一支線だ。トヨタ自動車の南側から人や資材(工場への引き込み線も存在した)を運ぶ大きな役割を果たしていた鉄道であったが、岡崎市内を走っていた路面電車が廃止され、結果として拳母線と岡崎市街地を直接結ぶ鉄道がなくなったことにより利用者が激減した。代わりを担ったのは自家用車であったことだろう。昭和48年3月、日本のモータリゼーションの発展によりその役割を終え廃線となった。
岡崎市は徳川家康生誕地と名高い岡崎城が象徴するように、歴史的には三河地域の政治、文化、経済の中心地であり、現在でも国道1号線やJR 東海道本線が市を貫いているがトヨタ自動車と関連部品メーカに勤める人たちのベッドタウンというイメージが強い。もう一方の拳母市の名称は豊田市へと変わり日本の企業城下町の代表例として発展している。
岡崎から豊田へ。鉄道から自動車へ。拳母線を廃線に追い込んだ自動車産業。その産業に従事する僕が趣味として走るのはその廃線跡。何とも不思議な縁を感じる。
国道248号線は拳母の丘を南北にまっすぐ貫いている。一方旧拳母線は丘を避けて回り込むように現存する名鉄三河線、上挙母駅までつながっていた。この違いは地図を見ただけではその理由に気付かない。おそらくウォーキングでも気に掛けることはなかっただろう。248号線の坂は歩いている時には坂であることを認識しつつも気にはならないが、ランニングルートとしてはちょっとしんどい絶妙な勾配だ。旧拳母線遊歩道はその勾配が緩やかで上るにも下るにもちょうどいい負荷を与えてくれる。拳母の丘は鉄道を敷くには急勾配で自動車道を作るには問題のないレベルの勾配なのだろう。
248号線を歩道橋で横切り岡崎方面に走る。鴛鴨駅地点の手前数100mのところで道路に分断される。完全に自動車道側が優先されていてランナーが横断するには50mほど迂回をしコンビニ脇の横断歩道を使う必要がある。こんなところはいかにもトヨタ城下町らしい(もちろん悪い意味で)。渡刈駅があった地点にはプラットフォームを模した段差が作られておりその上には待合室をイメージした休憩所の東屋が建てられていて渡刈駅跡と明記されている。東屋の隣には旧拳母線跡であることの説明看板がありその歴史を知ることができる。渡刈駅を過ぎしばらく行くと拳母線は高速道路で分断されているのだった。

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僕が走ったのはここまでだ。あとで調べたことだが、高速道路を迂回し反対側に回ればどうやら遊歩道は矢作川まで続いているらしい。いまのところの僕の走力では高速道路による分断点までが往復の距離としてちょうどいい。距離的に物足りなくなった頃にこの先に進んでみようと思う。
旧拳母線を走るうちに思い出したことがある。高校時代毎日自転車で通った道を大人たちは線路道と呼んでいたことだ。調べてみると東武鉄道の矢板線の廃線跡だということが分かった。なるほど僕は廃線跡に縁があるらしい。いつかは旧矢板線、つまりはかつての通学ルートを走る理由ができてしまった。とはいえ片道11kmもあるルートだ。当面の間は走り切れるだけの走力を拳母線に鍛えてもらうのがよさそうだ。

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