不入斗ケイ
大丈夫だよと言っていながらも、実際は大丈夫じゃなかった。 そのような場面、機会に遭うことがある。 例えるなら、 「私は自分で帰れるから、大丈夫だからね」 という流れの会話に行き着いたとする。 大抵の単純脳の男は、この言葉を満額に受け止めて、 「ああ、じゃあ僕は用が済んだらそのまま帰っていいんだ」 というベーシック地点に着地するだろう。 でも、最近この齢にしてようやく分かってきたのが、 言葉の裏側に潜む感情と思惑の存在だ。 女性が発する「大丈夫」。 それが
無性に 東京の夜景を見たいなと思う 夜景に包まれると 無性に 誰かに手紙を書きたくなる ホテルのライティングデスクの レターセットは そんな心を誘うためにあるのだろうか それらはすべて そんな自分に 会いたくなることから はじまっている 夜景は雄弁だ なぜそれを 知ることができたのだろう
突然、 どうしてこの人が、自分の隣にいるのだろうと、 そんな驚きが、射し込んでくる状況に遭うことがある。 え、なんで? こんなにも、明らかに他者と異なる光を放っているのに、 え、ここにいていいの? そんな気づきがやってきてしまうことが 過去に2度ほどあった。 そんな状況を客観視してみることで、 それが最上の歓びのシチュエーションであることを 知ることができる。 この驚きに出会えるなんて、 なんて幸せなことだろう、と。
気分転換の気分にも押され、タンスの整理、断捨離の儀を執り行うことにしました。 衣類品はもちろんのこと、ネクタイのような服飾品もその対象になります。 結果、この10本と別れることに決めました。 別れの理由は、それぞれにあります。 Men’sにとって、Vゾーンを彩ってくれたネクタイには、その1本1本に「戦友」的な思い入れとメモリーがあるもの。(少なくとも私には) 「これは、あの苦しかったプロジェクトの時に着けていたものだな」とか、購入した際の「これはあの社員(紳士服売場
今日、「テキサスの荒馬」テリー・ファンク が亡くなったというニュースが飛び込んできました。 79歳。数年前から闘病されて(パーキンソン病)おられる報を目にしていましたが、生涯プロレスラーのテリー・ファンク。きっと本人も、引退したという意志は最後まで持っていなかったのだと思われます。 私と同年代の男子の多くは、日曜夜8時(だったかな?)のプロレス中継に夢中になっていたものです。馬場、猪木の2大スターはもちろん、スポットで来日する外人レスラーの凄さに度肝を抜かれていまし
これって、もしかしてワナ? ワナにかかるかな?と感じた時はさ、 わかっていながらかかってみる。 そう思わせてくれるような、ワクワクする相手でなければ、 「ワナ」なんて、論外。
先月出版した第二作目の拙著、写真詩集「小さな手」(定価770円/Planning k.)。 明日より、山形県の下記書店にて販売を扱っていただきます。 ◯ 宮脇書店 天童店 ◯ 宮脇書店 ヨークタウン成沢店 これからも取り扱い店を増やしていきます。よろしくお願いします。
やむなき思いというのもまたあって。 誰かが誰かを好きになる、その出会いの順番が狂ってどうしようもなく好きになっちゃったってことは、世間がいいとか悪いとか騒ぐことじゃないと思います。 きっと人は、自分ができないことをやってのける人を嫌悪するのね。自分が憧れていることなら、なおさら。 その恋愛が正しいかどうかは、当事者が決めること。もしかしたら当事者だって決められないかもしれない。だから周囲がとやかく言うことじゃないと思います。真実はいつだって倫理とか常識とかの向こう側にあ
最近、車の中で聴く音楽にちょっとした異変が生じている。 洋楽一辺倒であった趣向から、これまで無条件で耳に触れてこなかったジャンルの音楽を、少しずつではあるのだが受け入れるようになってきている。 これは、年齢を重ねることで得られる「角丸」現象のひとつであるのだろう。だって今日なんか、「よこはま・たそがれ」を暫し聴いていたのだから・・・。20歳の頃の自分が、今目の前に現れたら、思いっきり罵られたことであろう。 なぜ「よこはま・たそがれ」なの?山口洋子なの?については、また別
ラジオを聴いていたら、懐かしい曲が流れてきた。 「雨音はショパンの調べ」 昭和の終わり頃、この人が大好きでよく聴いていたことがよみがえってきてくれた。 あの時代、「アンニュイ」というフレーズがキャッチーにもてはやされ、思考の浅い会話を交差させている若者風俗文化が浸透していた。 その先端にいたのが、小林麻美だったように受けとめている。 そんな、浮遊感があの時代の若者文化には存在していた。だから、銀色夏生が、あんなに売れたのだろうと分析できる。 そして、今のこの時代に
ひとりごとは わたしに一番近い言葉 ひとりごとは わたしの呼吸 ひとりごとは わたしの眼差し わたしはあなたの ひとりごとになりたい
今日、街を歩いていた時に目についた、とある店先に並べられてあった鉢植の花。 あゝこれは、昔ご縁があった旧友が好きだった花だなと、直ぐにインスピレーションが走り、急ぐ足を止められてしまいます。 これは、くちなし(ガーディニア)。 今もあるだろうか。 昭和の終わり頃、東北大学の片平キャンパスのとある一角にこの花が植えられており、そこを通った時にくちなしの薫りに気がついた旧友は嬉々として、この花が大好きであることを都度私に教えてくれたものでした。 そんな記憶が、自分にとってこの
人を好きになるということ。 出会いには「順番」があるのでしょうか。それが本物の出会いであるなら、それが一義になるものではないはずです。 たとえ、人生のどのタイミングであろうとも、順番が狂っていると指摘されようとも、好きになってしまったものは、世間がいいとか悪いとか騒ぐものではありません。 その恋愛が正しいかどうかを決めることができるのは、当事者のみであること。社会でも、世間でも、マスコミでも、周囲がとやかく言う次元のものではないのです。 真実は、倫理と常識の向こう側にある
ブルーがあるなら ブルーとの調和なら まごうことの無い美が存在する なぜなら 空 海も山も 地球はブルーを選び 一致する ブルーに纏われていたい地球 我らはなぜ忘れてしまったのか 宇宙船の船長 この地球を何色だと叫んだのか 聖母マリアが装った衣 真実のブルーとなぜ呼ばれているのか 誰か教えてくれないか 今ここにある光の意味を 誰か教えてくれないか かつて人は誰しもがブルーだったことを 誰しもが地球だったことを
このフライヤーを制作するにあたり、Main Visualとなる写真にはいくつか候補が挙げられていました。 この中から、この写真をセレクトすることに、さほどの時間を要することもありませんでした。即断即決、撮影を担当された東京のカメラマンに連絡を入れました。 通常、フラメンコに限らず、舞踊全般での公演のプロモーションにおいては、踊り手のステージ時の舞踊写真そのものを選ぶのが当たり前すぎる事実です。踊りのポージングを成さない、この写真1点だけをMain Visualとすることは