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舌をめぐる冒険

いつになくフーさん(アメリカ人の夫)の元気がない。ちょっと様子がおかしいと気付いたのは一昨日おとついの夜だった。

夕食を済ました後、いつものようにフーさんはエプロンを掛け、食器を洗っていた。私は横で食器を拭き上げながら、最近、投稿を始めたnoteやX(旧ツイッター)のことをハイテンションで一人、ベラベラ喋っていた。だけどノリが悪い。というか、イマイチ元気がない。

「どうしたの?なんかあった?」と聞くと、
「いや、なんでもない。疲れただけだよ」と言う。

珍しい。私はよく疲れたあ〜、くたびれたあ〜などと口に出すが、フーさんが疲れた、と弱音を吐く姿はあまり見たことがない。

脱力系で、すぐにリラックスしたがる私(なんせ、猫気質なので)とは違って、幼少の頃から苦労している彼はがんばり屋なのだ。

私は皿を拭き上げながら、横目でチラチラ様子を伺う。おかしいな、と思いながらも、深くは追求しなかった。

2月に出るハーフマラソンに向けて、連日走り込んでいるので疲れが出たのかな、と思ったり、レースが近いから最近、好きなビールも控えているしな、そのせいでテンション低いのかな、と思ったりした。

しかし翌朝起きると、彼はつぶやくように言った。
「数日前から、舌になんかできてるんだ」
私が怪訝な顔をすると、彼は口を開けて、舌をベロンと出してみせた。
「ほら、なんか白いの、できてるだろ」
「うん、そうだね」
確かに舌の左横に、白いプチっとしたできものができていた。

「痛いの?」
「ううん、痛くはない。ちょっと前からしこりみたいなものができてて、気になってたんだけど、気づいたら白くなってて」

私は目を凝らして、白いできものをじっくり観察した。痛くないっていうのが気になった。口内炎ならすごく痛いはず。

「しこりって、舌癌かもよ。舌にしこりなんて普通できないってば。聞いたことないもん。早くちゃんと医者に診てもらったほうがいいよ」

心配になった私が言う。フーさんも神妙な面持ちだ。自分でも何か悪いものかもしれないと疑っていたようだ。

「それで、それ、どれくらい前からあるの?」
「さあ、数週間くらい前かな?」
「なんで、もっと早く言わないのよ!!」
「いや、君が心配するといけないと思って言わなかった」

そんな、しばらく経ってから告げられるほうが余計に心配ではないか。癌なら早期発見するに越したことはない。

何はともあれ、朝一番、彼はかかりつけの歯科医、ドクター・テイラーに電話を入れた。彼女は恰幅のいい女医さんで、サバサバとした男勝りの人だ。自宅で飼っている大型犬を溺愛していて、人当たりもいい。私は大好きだ。歯科院の内装はまるで1980年代で時が止まったしまったかのように古臭く、室内でかかっている音楽は80年代の曲ばかりなのだが。

けれども、彼女はとても優秀な歯科医だ。私の奥歯のクラウン(かぶせ物)が欠けたときもすぐに処置してくれた。歯オタクで、歯に対して並々ならぬ情熱を持っている。結構キャリアも長いのに、まだまだ歯に興味が尽きないといった感じで、いつも目をキラキラさせて歯について語る。

日本の歯科医がどんなに優秀か、私に熱く語ってくれたこともあった。彼女の父親の代からこの歯科院をやっていて、町の人々は彼女に熱い信頼を寄せていた。特にブルーカラー層の患者が多かった。

話を戻すと、フーさんはその日の午後、すぐに予約が取れ、仕事の合間に歯科医院を訪れた。ドクター・テイラーは彼の舌を詳しく診察すると、

「これは口腔外科医に診てもらったほうがいいかもね。しこりを切除して生体検査をしてもらいましょう。こちらから口腔外科医に電話を入れておくから、後で自分で連絡して、手術の予約取ってちょうだい」

「えっ、切除って手術ですか?何か悪いものなんですか?」
「いや、しこりって言ってもいろいろ種類があるからね、私にはなんとも断定しかねるわね。とにかく口腔外科医で診てもらいなさい」
「はあ、なるほど」

私はこれまで何度か手術の経験があるが、フーさんは根っから身体が強く、手術なんて経験したことがなかった。フーさんの頭の中で手術といえばコロノスコピー(大腸内視鏡検査)のことだった。言っとくけど、コロノスコピーは手術ではないからね、検査だから!

口腔外科に電話すると、翌朝早い時間に予約がとれた。朝、うちを出る時、彼は、「それじゃあ、行ってくるね」と軽く言ったが、心なしか表情が硬い。

「うん、がんばって」と、私が言うと、
「じゃあね」と名残惜しそうに手を振った。

そして頷きながら、もしも最悪な事態になっても受け入れる心の準備はできているから、と目で訴えていた。あまりに不安そうなので、私が

「一緒についていこうか?」と聞くと、
「ううん、大丈夫、終わったらそのまま仕事に行くから」と手を振り、出かけていった。

口腔外科医院につくと、フーさんはかなり長い間待たされた。もしかしたら予約を忘れられたんじゃないかと、何度か受付に確認しにいったほどだ。そのおかげで、午前中の仕事をキャンセルするハメになった。だが、それも仕方がないだろう。体があっての仕事じゃないか。

名前を呼ばれ、診療室に入ると、最初に看護師に色々質問された。質問を終えると、最後に彼女が、「じゃあ、生体検査するかもしれないけど大丈夫?」と彼に聞いた。

「えっ、大、大丈夫って、どういうこと?僕、この後、授業して喋らないといけないんだけど」(彼は大学で教えている)

フーさんがあたふたしていると、

「いや、生検で舌を切除しちゃうと縫わなきゃいけないし、麻酔で舌の感覚がなくなっちゃうから、噛まないように注意しないとね」と、看護師が言った。

「そうですか」まあ、それならそれでしょうがないな、と動揺しながらも覚悟を決めたフーさんだった。

その後、口腔外科医が部屋に入ってきて、彼を診察し始めた。医師はガーゼを挟んだ手で、フーさんの舌をぐいっとつかんで引っ張り出し、左、右と舌をグイグイ動かして、詳しく調べた。それから首を横に振った。

「なにも見えないけどね」

フーさんは信じられなかった。

「いや、ホントですか。ドクター・テイラーには舌の奥の方もちょっとおかしいわねって言われたんだけどな」とフーさんが思い出したように言う。

「そうかい。じゃあ、もう一回見せて」と言って、医師はもう一度舌を引っ張り出して注意深く眺めた。

「ほんとに何もないけどね。舌を噛んじゃったんじゃない?」
「舌を噛んだ覚えがないんですけど」
「ときどき、夜寝てるときに噛んじゃったり、歯と歯の間に挟んじゃったりする人がいるんだよね」

フーさんは、ふーん、じゃあそういうことなのか、とイマイチ納得いかないようすで頷いた。そして、そばにいた看護師に向かって
「ふーん、だけどうちの奥さん、もう僕のこと大病人だと思い込んでますよ」と言って苦笑いした。

「まあ、ようす見て、数週間後に戻ってきてもらおうか」と医師が言った。
「はい、じゃあ、そうしますけど」と渋々言い、まだ疑い深そうなフーさんを見かねた医師が一言、

「あのね、僕は、毎日患者の舌を見てるし、これまで数えきれないくらい大量の舌を見てきたんだよ。その僕が保証するんだから、大丈夫、信じて!」

私は後で、その話をフーさんから聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。なんだ、心配して損したじゃん。だけどその医師、大量の舌を見てきたって、すごっ!

私の脳裏をさあっと大量の舌がよぎっていき、一瞬くらっと眩暈めまいを覚えた。人の舌ばかり見る人生もあるのね。今まで考えたこともなかったけど。なんか感慨深かかった。



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一森キティ
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