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"I(アイ)"が語りだすように。
きのうは、仕事の打ち合わせが2本。
企業向け研修のお手伝いと、大学向けの講座のための準備の打ち合わせ。
受講される人たちを想像しながら、どうやってそれぞれの日々に、人生に、使いやすいものとして届けられるのかを考えるのは、とてもたのしい。
夜には「20世紀少年」の完結編の映画をみる。
先日まで入っていたWOWOWで放送されていたのを録画していて、今ごろになって一気に観た。ウィルスとかワクチンとか、今に重なるところがタイムリーすぎてこわい、、、。
あの時、もう少しだけ勇気を出して、自分の気持ちを表現できていたら。
ほんのささいなことが、人生を変えることもあるよね。そんなことを思った昨夜。
ひとは思っている以上に、
自分の気持ちを口にしていない。
そのひとの本当のことば。
本音が語れるようになると、人生は動き出す。
ひと、というか、自分自身がほんとうにそうだったとふりかえる。
感じていること、思っていることはいっぱいいっぱいあるけれど、口に出してみたらどうなるか、相手に伝えてみたらどうなるかって、悪い想像を巡らせてはのみこんできた。
実態のない「空気」というものに圧を感じて。
その「空気」は、それぞれのひとの想像の産物に過ぎないことにすら気付かないで。
その想像の大半は、大げさで、現実にならないことだってことも知らなかった。
飲み込んだことばや気持ちは、お腹のなかで培養して発酵しているんじゃないかって思ったりする。発酵させて「どうせ誰もわかってくれるはずない」っていうシロモノをせっせと培養してきたようにも思える。
中学生の頃、仮面をかぶればいいんだと気づいて、そう決めた瞬間を覚えている。そうしていれば、誰にも傷つけられないような気がして安心だって。
だれも本当の自分に触れられないようにしておけば、誰にも傷つけられることはない。
あの頃、特に深く傷つくような出来事があったわけでもないし、ともだちもいてそれなりに楽しく過ごしていたんじゃないかと思うのに、まさに中2病で(汗)、内心ではただ毎日いろんなことにがっかりしていた。相手の期待なのか、自分がやりたいことなのかも混在してわからなくなって、ただ機械的にやり過ごしていた日々。
誰かの期待を生きるための仮面をつけて、
わたしはわたしの人生の傍観者になっていった。
「仮面で武装している限り、こころの奥で願っているような理解や安心、つながりはやってこないんだ!」ということに気づいたのはいつだっただろう。そしてそれに気づいてから、武装解除できるようになるのにどれほど時間がかかっただろう。
いつもよりほんのちょっと、自分の気持ちを話してみる。
防御線の一歩先に、出てみる。
受け取られる体験を重ねるほどに、安全地帯はひろがっていく。
たとえ受け取られなくても、世界は何も変わらないことも体験していく。
思いがけないささいなことが、誰かに響いたり、みんなの時間をとって申し訳ないと思うような本音の告白が、場を溶かしていったり。
想像していたのとはちがうような、新鮮な反応や体験が、いつもそこに起こる。
そんなちいさな1歩を重ねた先には、ぜんぜんちがう質感のあたたかな世界が待っていて、わたしの人生はゆるゆると動き出した。
「I(アイ)」=自分を主語として語る本当の言葉
「I」という主体性をもって喋る能力は孤独にひとりでに育つものではなく、
他者との関わり(傍観者としてではない「自分」としての関わり)を通じてしか生まれない。
嘘ばかりついていた人が「I」を主語にした言葉で話せるようになるには、自分をさらけ出しても安全だと思える場所として機能する空間が必要だという。
映画「プリズンサークル」の坂上香監督のことばを引き合いにだしながら、ブレイディみかこさんが「アナーキックエンパシー」の中に書いているけれど、まさに「安全地帯」が必要。
プリズンサークルでは、サンクチュアリ(聖域)をつくることからはじめる、と。
サンクチュアリ。なんてすてきな響き。
その人が、その人のままであることを受け入れられる聖域が、意図をもって出現すること。
わたしが仮面を外すきっかけも、安全地帯だと感じられる場所で、すこしずつ自分のほんとうの言葉を話し始めることだった。そして、その体験が、自分の内側に自分で聖域をつくりだす力になっていった。
内なるサンクチュアリは、自分で作り、耕していける。それが他者と交わることで可能になるとは、難しいけれど、希望でもある。
空気を読んで話すことより、自分のことばを話すことを選ぶ。(もちろん時と場合によるけれど、それは選択すればいい)
安全地帯体験をつくりだして、「I」が語りだす場をセッティングするために、しごとをしているなと思う。しごとというか、それがわたしのライフワーク。
大学の授業も、自分で主宰しているさまざまな企画も、個人セッションも。
それぞれの「I」が語りだす瞬間をただただ待っている。
「I」に流れ込むたくさんのことについては、またどこかで。