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それでも残ってる“〜でなければ”の潜在意識に気づく


潜在意識の話をするときに「〜べき」と「〜でなければ」は欠かせないテーマです。
この「べき」と「~でなければ」が多いほど身動きが取れなくなってしまうので、すぐに払しょくするのは無理だとしても、気が付くだけでもずいぶん違うのかな~と思うのです。

この、自分や周囲に対して何かと制限をかけてしまう意識。
思い込み、決めつけ、観念とも言い換えれるかなと思います。

良いか悪いか、白か黒か、正か誤か、〇か✖か、出来るか出来ないか
でしか判断しないような考えとか、

これらは、私たちが育ってくる過程で、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたものです。
やはり、環境ですよね。
というと「親」「教育」「学校生活」「友達」・・


ただ、そんな縛り付けるイメージの一方で、
「べき」と「~でなければ」は社会生活では必要なものも含まれますし、

日本人の礼儀正しさや、よく世界から称賛される災害時でも秩序を乱さない日本人の姿勢などは、そこが基になっているとも言えますよね。

なんでもそうですが、強すぎず弱すぎずの中庸を保つことが大切ですね。


生き辛さが無くなってきた。と言う皆さんは
この「〜べき」と「〜でなければ」については
もうずいぶん認知して解放されてきたのかなと思います

が、
この「〜べき」と「〜でなければ」は
なかなか頑固なので

当たり前のことになっていて、
気にもせずそのままスルーしてることが
多々あるように思います

と言ってる私自身が
生活の中の至るところに
残っているなぁと自覚しています

例えば先日、
ストーリーズにアップしたのがこれです

@g.generation_kyoko
6月13日  Instagramより

引き出しにキチンと収納しても
次に開けたときは跡形もない状態で…。

そう、そんなの大したことない、
元のようにまた整頓すれば良い話です。

でも、毎回、やっぱりムッとなるしストレスです

私は洗濯物をたたむこと、
片付けることは全然平気です
むしろ好きです

ただ、
自分の物・自分の使ってる物を
乱したら元に戻す“べき”なのに、
それをせずにいる相手に

私の中の“べき”が、反応してしまうんです

夫への「〜べき」と、
自分への「〜べき」と戦ってました。

そして考えた解決策が、

洗濯物をたたむところまではやるけど
それ以上のことは
やめれば良いと思ったんです。



だけど、何年か前の私は
絶対こんなことはできなかったです

私がやらなければ…
夫の機嫌が…
私の役目だし…って

でも、いまは全然平気です

夫が何か言えば、
あなたのものだから、
好きなように入れてね!って言います。

もう、ぐちゃぐちゃになってようが、
私の管轄外です

いたって平和


皆さんは自分の中に
この「〜べき」と「〜でなければ」は
どこかに残っていませんか?

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きょうこ〜*
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