ずっと反抗期

小学生か中学生ぐらいまでか?「自分に厳しくて、えらい。まじめ。」と周囲から言われていた。自分でもそう思っていた。ガヤガヤとした授業中の教室は嫌いだったし、静かにさせようとする先生に全面協力する子供だった。

しかし言われ続けるとまじめという言葉に、つまらない奴だという意味を感じる時もあった。
そういう自分のイメージを裏切りたくて、反抗したくてだらけるようになった。なにかできないことや面倒なことがあると「まあ、いいじゃない。普段まじめだって言われるし。」と逃げた。

すると段々ただの甘えではなく、本当にデキナイ人間であると分かってきた。待ち合わせに余裕を持って到着できない。忘れ物をしてしまう。何をやっても遅い。言葉が足りずに相手をイライラさせてしまう。
「自分は人間性では勝負ができない。勉強という努力でなんとかなるものを得意にして人権を獲得しなければ。」
と思うようになった。幸い良い先生や学習環境にも恵まれ、なんとか第一志望の大学に入ることができた。

よし、ここまで来れたら良い就職先に行けるはず。そうして臨んだ就活。ボロボロだった。エントリーシートで落ちてばかり。そんなはずはないと思った。大学では授業中こそぼーっとしていたが、ダンスサークルにはめらめらとしていてガクチカと呼ばれるものにはかなりの自信があった。就活のためだけの付け焼き刃的なボランティア活動やバイトのネタを話す人に比べて、圧倒的に私は熱量で勝てるはずだと思っていた。それが分からない大人なんぞ、こっちからお祈りだと反抗していた。

ただ、人は刃を外に向けて切り付けるものがなくなると自分に刃を向けるらしい。あれ?自分がデキナイ人間だから?他の人よりデキナイ?あれだけ学歴を信用し、赤本を積み上げて、サークルも頑張ったのに、憧れの丸の内の高層階では働けない?辛かった。劣った人間性という傷を学力というかさぶたでかばってきたはずなのに、乱暴に剥がされた気がした。レッドオーシャンは嫌いだと思った。

「自分に厳しくて、えらい。まじめ。」

ちがう。自己否定をしているだけだ。「どうしてできないの!?」と追い詰めているだけ。問題の本質から目を逸らし、ごまかす方法を考えている。「どうやったらできるようになるか」なんて前向きなことは考えない。私は自分にキビシイから。追い詰めることはきもちいい。苦しいけれどきもちいい。ネガティブのガムに病みつきなのだ。噛めば噛むほど出るおいしい味は自分で切り付けた傷に染み渡り、私を離さない。

分かっている。だれかに心配をかけること。そうやって追い詰めてもさらに状況は悪くなること。こんなのは大人がやることではなく、早く負のループを卒業しないといけないことも分かっている。

だけど私は反抗したい。成長していく社会に、進み続ける時間に抗いたい。

だってそれが私の表現の源になることを知ってしまっているから!ネガティブが表現に昇華されると途端に美しくなること、表現の奥行きを生み出すことを知ってしまっているから。このネガティブのガムがないと私は私でいられない。

はあ、もう年齢はとっくに大人なのにな。
中学生の私へ。電車で1人バッグを抱き抱えて顔を伏せて泣いていた頃と変わらないさ。でも生きているよ。たった1人生きている。きっと私は生かされている。

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