なぜ「教育論議」はすれ違うのか(2/2)
前回の続きです。前回は、「教育論議」にまつわるすれ違いとして
すれ違い①:着目するライフステージの違い
すれ違い②:「誰のための教育か」のすれ違い
すれ違い③:「個人のため」か「社会全体のため」か
について書きました。これらと似たような話も混ざりますが、あと5つ挙げてみたいと思います。
すれ違い④:「認知スキルか非認知スキルか」を分けることによるすれ違い
教育を通じて子どもに身に付けてほしいこと、自分が身に付けられたことはたくさんあると思いますが、それらは「英語」「三角関数」のようないわゆるお勉強的なものに限りません。だいたいの「身に付けるべきもの」は
知識記憶や「表現力・語彙力」「論理思考力」などの認知的スキル
「GRIT」「共感力」のような非認知的スキル
「伝統を重んじる心」など一定の価値観を伴うもの
のどれかと言えると思います。
価値観はいったん横に置いて、「認知」「非認知」のスキルの分類で勿体ないなーと思うのは、この分類に基づいて「英語力が大事だ」「いや『やりぬく力』を鍛えないと」というような形で議論をすると、かえって話はすれ違うことが多いことです。
なぜかと言えば、まずどちらも重要なので、優劣をつける議論に決着はつかないからです。漢字が読み書きできても、それを活かして読書でも検索でもなんでもしてみようというやる気がなければ役に立ちません。世の中への好奇心があっても、漢字のサイトは何言ってるか分からない、では好奇心は満たせません。
加えて、認知スキルと非認知的スキルは、互いが互いを高め合うものです。英数国理社という具体的な教科の勉強を通じて、あきらめない精神や知的好奇心が鍛えられたり、苦手科目の勉強から「何かが不得意な人の気持ちが分かった」という人もきっといらっしゃると思います。また、アメリカでは、監獄での読書会によって、出所後の再犯率が下がったという研究があります。これは語彙力、表現力など認知的なスキルを伸ばすことで、自制心など非認知的なスキルが養われた例と言えるかもしれません。
いずれにせよ、教育活動はたいてい、複数のスキルを同時に総合的に伸ばしていくものであり、洗練された教育活動であればあるほど、認知・非認知スキルの両者を一体的に伸ばそうとしていると思います。
スキルを分類して網羅的に理解することは大事だと思いますが、パーツごとに切り出して育てていくものではないですし、分類が難しいものもあります。また、そもそも変化の激しい時代においては、必要なスキルはすぐ移り変わっていきます。「どれがどれより大事なのか」的な議論はほとんど意味がないと思います。
「学校に何を求めるか」という議論をするときも同じで、例えば、大学は専門知を学ぶ場所か、一般教養を身に付けて総合力を養う場か?といった、二項対立的な議論は多いです。答えは「両方」ということにしかならないと思います。
すれ違い⑤:「学校はこうあるべき」なのか「現状こうである」かのすれ違い
「学校に何を求めるか」論で、もう1つ気を付けるべきことがあります。それは、
現実の学校の姿(「学校にできるのはこんなもの」)論と
理想的な学校(「本来学校というのはこういうもの」)論を
をごちゃまぜにしないことです。
これはすれ違い①での「積み上げ式」と「逆算思考」の違いに近いと言えるかもしれません。どちらにもメリットデメリットがあります。
「どうせみんな塾に行くんだから、学校にできることは少ないよね」
「学校の先生は丸暗記のテストを出すだけの存在」
こういった観点から学校を批判するのは、典型的な「現実アプローチ」でしょう。これは「もっと望ましい状態だったら、学校はどんな凄いことが実現できるか?」という理想について吟味しないで、学校一般についての評価を下してしまっています。
他方で、ちょっと極端かもしれませんが、
「学校で規範意識と起業家精神と素直さ、積極性・自主性と自己肯定感と意欲と知的好奇心と探求心と………を育んで、
ペラペラの英語力と国語力、数学的思考力に加えて人前でプレゼンする力などなどを向上させつつ、
福祉のセーフティネットに乗せるべき家庭や警察につなぐような事案もすぐに発見して、
あらゆるスポーツ・文化芸術活動の中から子どもに最も向いたものを選択し、
健康・法律・IT・金融などのリテラシーを備え、
成功体験を持ちつつ困難を抱える他人に共感でき、
地域の伝統文化を日々体験しながら、
国全体のことにも明るく、
国際的な価値観にも十分に触れた人材を育て………」
というのを、全国すべての学校でいきなりやるのは、どこの国でも、非現実的です。
「子どもと教員の有限の時間をそれぞれ何に使うのか」
「それを担える教員やそれ以外の人材がいま日本に何人いるのか」
といった視点とセットでないといけないと思います。
経営学ではよく「ビジョン」を描くことが重要視されますが、そんな経営学の世界においても、有名な経営学者のピーター・ドラッカーPeter Drucker氏は、「未来を語る前に、現実を知らなければならない。現実からしかスタートできないからだ。」と言ったそうです。学校のマネジメントもきっと同じことで、理想と現実の両面から見て初めて「学校に何を求めるか」論が成立するのだろうと思います。
すれ違い⑥:「教育的」の意味のすれ違い
理想と現実の両面を見て学校に「何を」求めるか、という話をしました。これと同じくらい大事なのが、学校に「どう」教育してほしいか、という点だと思います。
今や死語になりつつあるようですが、「教育的指導」という言葉を聞いて、(柔道の試合で使われるのは別として)「叱責」「説教」「上司が部下を諭す」的なシーンが思い浮かぶ方は多いと思います。非行少年などへの「生徒指導」も、ビシッと叱り飛ばすようなイメージかもしれません。「ご指導いただく」という言葉は一般的に、「未熟な自分に、正解/よりよいあり方を示してもらう」という意味で使われると思います。最近の話では、例えば北海道・旭川市のいじめ問題のような、生徒が悪質な加害者であるケースにおいては、もっと毅然とした指導をすべきである、という論があると思います。
一方で、「マイルドヤンキー」という言葉も生まれているとおり、いわゆる少年犯罪の件数は一貫して減少しています。(このデータだけをもって「教育的指導」がもう必要ない、と結論付けることはできませんが。)
また、非行少年と言われる子どもについても、「反省させる」以前に「『反省』できる土台を築く支援」が必要だ、という話があります。詳しくは以下の本に譲ります。
いずれにせよ、「教育的指導」という言葉は、いわゆる「矯正」的なニュアンスで使われてきたと思います。いっぽう、「子どもの興味関心に応じて好きなことを全力で追求させる」のも、教育的なアプローチと呼べるでしょう。また、特別な支援を要する子どもが、円滑にクラスの集団活動に参加できるようにすることを「教育的配慮」と言ったりもします。
子どもに特定の方向への矯正を求める
子ども自身の興味関心に基づいた変化を引き起こす
子ども一人ひとりの特性に配慮する
という要素が全て「教育」の語に詰まっているので、「教育が大事」という総論はみんな同意できても、そのやり方として思い描いていることは実は全然違う…ということもあると思います。
すれ違い⑦:「子どもってこうだよね」のすれ違い
なぜ「教育的」にこんな解釈の違いがあるかと言えば、「子ども・人間はどういう存在か」ということについて、考え方が違うからだと思います。
「教育的指導」「しつけ」的な手法を重視する人は、人間に対して、性悪説ないし「子どもは白紙状態で生まれてくるから、態度的なことも含めて、必要なことは注入しないと」という前提を持っていると思います。
「興味関心に基づく教育」的な思想には、いくつもの教育方法論があると思いますが、基本的には性善説ないし「子どもは知識以外の必要なもの(優しさや好奇心など)は持って生まれてくるので、それを殺さないだけでいい」という前提があると思います。
性善説と性悪説については、歴史上様々な事例と主張がありすぎてなんとも言えませんが、とりあえず、「子どもは完全白紙状態」という言説(育ち100%論)も、「子どもの脳に必要なことは全て眠っているので引き出すだけ」という言説(生まれ100%論)も、脳科学的にはどちらも否定されています。そうしたことを書いた本はたくさんありますが、最近だと以下はわかりやすいかもしれません。
こうした子どもに関する前提の違いは、大人の数だけあります。中には社会の変化にあわせてアップデートしないといけない「思い込み」もあるでしょうし、時代が変わっても普遍的な真理もあると思います。
特に、「10歳ならこれくらいできるよね」といった、子どもの発達段階の捉え方の違いは、教育論議をかなり混乱させていると感じます。
まず、小さい子どもの発達はかなり個人差があります。例えば「初めて言葉を発するのは1歳前後」とされていますが、これはあくまで平均で、生後9か月~18か月くらいの大きな差があります。発語してから文章を作れるようになるにも時間がかかりますし、発語が遅くてもその後高い知能を示す子どももいます。
ですが、そういった「ばらつき」について社会全体が認識を共有しているとは言い難く、家族親族の経験に基づいて話していることが多いのではないでしょうか。(こういった発達関係の本を読んでいると、一人ふたりの子どもを見ても、子ども「みんな」のことが分かるわけではないのだろう、と思わされます。もちろん、子育てをしないよりもする方が、子どもについて分かることははるかに多いでしょうが。)
すれ違い①の議論にも戻っていく話ですが、発達に対する前提が違えば、ライフステージごとの適切な教育に関する考え方も異なることになります。
また、人間は、どんなに珍しい物事でも、それがいったん起こった後は、「あれは予想できたよね~」(ひどい場合は「私はあれは予想していたよ~」)と考える傾向にあります。いわゆる「知ったかぶり」ではなく、本当に「論理的に言って予測できたよね」と考えるのです。これは「後知恵バイアス Hindsight bias」と言って、行動経済学の実験でも示されています。
これを教育の分野にそのまま当てはめていいのかわかりませんが、「自分が一度習得したこと、経験したことは簡単に思える」という傾向は、誰しもあるように思います。そうすると、もし大人が「後知恵バイアス」を持って子どもに接すれば、「これくらいの歳には自分はもっと分別ある行動をしてたから、しっかり指導しないとな~」「これくらいの歳だからもっと自由にやらせても大丈夫だろうな~」と感じてしまうのであり、適切なアプローチを客観的に議論して導く、というのは難しくなると思います。
すれ違い⑧:「社会ってこうだよね」のすれ違い
最後に「社会の捉え方」のすれ違いを挙げたいと思います。
以前、留学するには
「理想の自分 ー 現実の自分 = 留学で学びたいこと」
という等式をクリアにするべき、という記事を書きました。
留学に限らず、「個人や社会の現状を、より望ましい良い方向に向けて変えていく」のが教育の力だろうと思います。
そこで、この等式を個人から社会に拡張すると、
「理想の社会 ー 現実の社会 = 教育がすべきこと」
となるでしょう。この等式から言えるのは、たとえ理想の社会(つまり教育の目的)について見解が一致した(あるいは、違いを十分に理解しあった)としても、「教育がすべきこと」については、共通認識に達しないこともあるということです。なぜなら、「現実の社会」、つまり教育をとりまく社会情勢などについて、認識が揃っている保証はないからです。
「現状認識を揃える」と口で言うと簡単そうですが、教育論議で「現状認識」を揃えることは、教育の「目的」について共通解を出すことよりも、困難で壮大で奥深い話だと私は思っています。というのも、教育のことだけについていくら話し合っても、現代社会についての現状認識は揃わないからです。
以前の記事で「学校だけを見ていても、学校に・教育にまつわる課題は解けない。」と書いたことにも関連しますが、がっつりマクロな教育論議(特に公教育に関する論議)をするに当たっては、社会的バックグラウンドについての前提がいろいろ必要になります。以下はほんの一例です。
もっと抽象的なところでは、社会を「どれくらいフェアなものだと見るか」という違いもあります。一つの立場は、「世界は誰にとってもフェアであり、正しくふるまってしっかり努力すれば成功するし、そうでなければ失敗する」というものだと思います。これを公正世界仮説(Just-World Hypothesis)と呼んだりします。
逆の立場は、「人の成功は、その人を取り巻く社会的環境によって決められてしまっており、世界は生まれながらに不公平である」というものでしょう。例えばアメリカでは、「人種」によって権力関係が決定されるような社会構造を変えていくCritical Race Theoryという運動があります。これは人種やそれに基づいて形成される社会環境によって、人の成功が左右されてしまっている、という考えに基づいています。
最後まで強調したいのは、どちらの立場に立つ人にとっても「教育」はとても重要であるということです。真逆の立場に立つ人たちがともに支持するのが教育です。
…ですが、「教育」に期待しているものが同じとは限りません。「公正世界」的な立場の方からすれば、教育は「報われるための正しい行いを知る」ために重要であり、「頑張った分だけ差がつく社会」のために教育がある、ということになります。スポーツのように、一斉の試合をするフィールドを教育が用意している、といったイメージだと思います。
「社会的環境」的な立場の方からすれば、教育は「ハンデを負わされた人を救う」ために重要であり、「出自によらず機会均等・平等が担保される社会」のために教育がある、ということになります。
アメリカは人種問題を筆頭に、誰もが認める格差社会です。日本でも「親ガチャ」という言葉が流行ったりするくらいですから、今の社会で、100%の「公正世界」論に立っている方は珍しいと思います。
しかし、逆に、100%の「社会的環境」論は、あまりにも運命論的・悲観的だったり、全てが「人のせい」「社会のせい」のようであったりするので、これもまた極端な立場と言えると思います。
「Critical Race Theoryに基づく運動が成功するかどうかも、当事者の社会環境次第で既に決まっている」と言われたら、当事者は怒るでしょう。また、あるアメリカの地域で、貧困区の学校のパフォーマンスが向上した秘訣は、逆説的なことに、「この世界は自分の努力で変えていける」という公正世界的な信念を共有することだった…などというレポートもあります。(※定説ではありません。)どちらの立場がより教育的に正しい、ということもなさそうです。
すれ違い①の話と同じく、多くの方は、「公正世界」的な考えと「社会的環境」的考えの両方を持ち合わせているのだと思います。これもまた、それぞれの立場のメリットデメリットを理解することや、自分は何を「自分次第」と思うのか、何を「本人の責任ではない社会課題」と思うのかといったことを客観視し続ける、ということに尽きるのだろうと思います。
以上、あくまで個人的な経験に基づくものですし、「こうすればすれ違いは解決できる!」というものではありませんが、教育論議における「すれ違い」を8つ挙げてみました。
繰り返しになりますが、これらの「すれ違い」は、どちらをベースにして話すべきというものではありません。こうしたすれ違いを越えて、より深いところで、個々人の原体験や哲学に根差した、教育の「目的」に関する論議が活発になることを個人的に願っています。お読みいただいてありがとうございました。