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ひと。という存在定義

 世の中の仕組みって、よくわからない。
 知らない間に勝手に巻き込まれているタイプの自覚はあるんですが、なんせ本気で全く予想しないところから知らない間に勝手に巻き込まれているので、回避したくてもどう回避したらいいのか困惑するしかないのです。

 愛とか恋とかっていうのは、所詮は画面の向こう側にある他人事の世界にある娯楽施設のエンターテインメントであって、わたしの世界には存在していないんですよ。ハイ。何度言っても、誰にも共感されないし、いつの間にか勝手に巻き込まれてばかりなのはこちらとしても非常に対応が面倒くさいし大きなお世話どころかありがた迷惑なので、是非とも巻き込まれるのは大変遠慮したいんですが、どうやらそう考えること自体がおかしいらしい。

 ええまあ、一応、自覚はあるのでその突っ込みも必要ないんですけれど。

 一応、上記に関連する、とある契約について常々疑問に思っていることがあるんです。結婚っていうんですけど。
 そこに至るまでの愛だの恋だのお見合いだのはこの際どうでもいいんですが、結果的に生涯を伴にするために交わす紙切れ一枚で契約、及び解除することが可能な『パートナー』という存在は…………もしかしなくても、必ずしもお互いにとって『対等関係になる訳ではない』のかな???って、たまに不思議に思う現実。

 結婚。
 前提条件として、性別は問わない。

 私にとっては、なぜその選択をするのか。しなければ生きていけないと言うのかと世にも奇妙な物語的に不思議だな…とものすごく感じるんですよ。
 一応知識として、契約内容次第ではお互いにそれなりのメリットがあるのも分かります。でもそれは、そういうものという知識を知ってるという事実だけで、自分がパートナーを選択して契約をするというイメージには結びつかないんです。
 ついでに、それを現実世界で自分相手にネタとして押し付けてくるような態度を取られるのも苦痛で苦手ですし、ものすごく嫌です。相談や愚痴の捌け口として短時間であれば聞くのは平気ですが、こちらを意思のないサンドバッグのように誤解されている方々のお話にはお付き合いしたくありません。ええ、残念ながら血族含めた複数の方のストレス発散の捌け口としてよく対応させていただきました。ご本人様はすっきりご満足されていたようなので、こちらのもういい加減にして欲しいという、うんざりとした感情はあちらにとってはどうでもいいようです。

 ただ、そのようなお話の中で語られる中身は『明らかにしあわせだと思えない状況』が繰り広げられることが多々ありまして、子どもがほしいとか、誰かに甘えたいとか、食べたくないものを押し付けられるとか、好きでもない相手を私が好きだと何故か誤解され無視されるという、完全に他人事なのに面倒ごとに巻き込まれる確率が高いのです。
 普通に仕事仲間として相手して、真面目に仕事してるだけなんですよ?
 理由を知ったときは、意味が…分からなかった。元々そんなに人付き合いを重要視しなかったので数少ない話の通じる同性の同僚に、仕事先に仕事以外を求めるのって普通なんですかね?って聞いてみればよかったなと今頃気が付きました。

 そんなわけで。
 異性同性関わらず、仕事仲間を仕事仲間としてではなく、人生のパートナーとして必ず選択しなければならないという固定概念のお話は聞き飽きました。
 休憩中や食事中、飲み会の席ですら息をするように誰が誰を好きらしいだのあの方はフリーなので貴女もフリーならどうだろうか等、下手に対応すると非常に苦痛で巻き込まれたら凄まじく面倒なお話を耳にする機会がございますが、内心では身近なものを娯楽にしなければ生きていけないほど娯楽に飢えていらっしゃるのか大変だなと同情する程度です。

 正直そんな話をツマミにダラダラ聞かされるくらいならば、同じダラダラだとしても推しについて思う存分に語り合える時間のが優先順位として高いのは明白だと思うんですよ!

 私ですか?
 推しがいるので現実世界の娯楽は別にどうでもいいです。むしろ推しが現実世界で何かしてくださった場合に余裕があれば、嬉々として課金するのみですよ。余裕オブ課金。正しく推しのために息をしています。
 私にとっての仕事は推しに余分に課金するために頑張る苦行であり、推しのために徳を積むための作業場所なのです。そして時間をひねり出しては推しを眺め尊び、幸せをかみしめながら推しを愛でるのが私にとっての幸せな時間の使い方なんです。

 仕事は仕事。ただそれだけなんですよ。世の中の主流のような、うっかり人生のパートナーを見つける場ではないのです。

 それにしても、少子化対策とか聞き飽きました。

 愚痴のサンドバッグをしていた当時のお話しに戻りますが、パートナーに逃げられて(または死別して)朝から晩まで、複数の職場で働いて子どもを大学まで出した(意訳)とかっていうお話なんかは、戦後の典型的日本女性の形式美的な仕様ですか?って聞きたくなるくらいには耳にするお話なんです。おそらく国や時代なんて関係はないとは思うんですが、性差での給与金額や地位など、現在判明している事実ですら同性であれば誰もが同情的になるレベルで酷いわけで。
 ですから、過去、確かに現実的に苦労したことは分かりますし、実際に意思決定した上できちんと実行されたわけですからその部分に関しては素晴らしいとは思います。思うだけですが。

 純粋な興味と単純な疑問なんですが、ご親族やパートナーが呼吸をするようにパートナー軽視やDV行為を常習的にされる方との恋愛って、性癖でしたらある程度抗うことは出来ないと思うのでしょうがないとは思うんですが、恋愛の括りに入るのでしょうか?
 だってその契約は、下手したら『パートナーを対等な人間と思わない存在とジブンは交尾行為に同意します』って言っているようなものじゃない?

 個人の自由だから、好きにしたらいいけれど。

 この国は、非情に残酷で残忍で残念な現実として『女性』も『男性』も『そうでない性』も、年齢も、職業も、何もかもが不当で不平等な造りをしている事実を認めようとはしないし、何かもう認めたらしぬ呪詛でもかかってるのかな…って不思議になるくらい視ないフリが上手。もちろん、その中には私も含まれる。現実逃避ですからね、そもそも。

 お互いがお互いを『対等関係として扱う』ことですら、同性でも少ない。別性なら尚更だ。

 聞いてもいいかな。ねぇ、『パートナーを対等関係として認める』ってそんなにムズカシイんですか?
 なんならパートナーじゃなくても良い。『仕事仲間を対等関係として認める』とかでもいい。『たまたま同じクラスに配属された同年代の人間』でもいい。

 勉強や仕事が出来る出来ないではなく、年齢とかも関係なく。
 個人の主義主張を個として認めて、『有る』。それだけ。

 確かに生きていく上で、受け手側がどうしても受け入れられない『何か』が相手側に存在するのはよくある話。そして、その相手の一部に関してだけでなく、『何か』があることで『相手側全部』を受け手の中で嫌悪することは実際によくあることだとも思う。
 だからといって、その嫌悪からくる拒否を受け手以外の誰かとともに『〇〇だから、〇〇は嫌だね』と共鳴して誇張していくのは話が別。

 いじめているつもりじゃなかった。

 よく聞く言葉。他には『無視するつもりじゃなかった』も、目にしたことや耳にしたことがあるかもしれない。
 学校や、職場や、SNSや、テレビの中。
 過去、どちらも体験したり、片方だけ体験したり、結果的に巻き込まれていた場合も有ると思う。

 多分、私は少数派で、どうでも良いことに関しては本当にどうでもいい。
 気にしない。それには理由があったかもしれないけれど、今、そのことについて話す気はあまりない。結果的にそうなってた。
 面倒くさいだけな気もするけど、でもまあ、軽い気持ちでちょっとだけ吐き出すつもりだったのが、大変な文字数を吐き出していて自分にびっくりしてる。相当溜め込んでいたらしい。
 でも流石に疲れてきたので今回は、ここで筆を置きたいと思う。

 限界集落の片隅で、私はまだ、息をしています。

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要
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