明治期、津田左右吉の学校批判


古事記、日本書紀の研究や日本の国民思想の研究で著名な津田左右吉は、早稲田に奉職する前は千葉県や群馬県において中学校教員をしていた。

教師時代の津田は「煩悶青年」として、苦悩を日記に書きなぐっているが、その中でも、自己の教育観や、社会問題への視座は非常に興味深いものがある。
その上で、自らの日記に書き記し抱いてきた教育と社会という問題についての自己の問題意識を「中等教育における欠陥を論ず」という一九〇〇年頃に書いたと推定される未発表草稿で体系的にまとめている。

この論考は、日本における中等教育の方法が模索され、成立しようとしていた時期において、現役の教師が赤裸々に語った視点として非常に示唆的である。

ここでは、その内容を見ていこう。


まず、明治中期の日本の状況を、

「国威輝き、国権揚り、文物盛に、財用充ち、駸々として日に文明の途に進むと、いはばいふに差支なく、国運の衰弱など、ゆめに思ふも以ての外なれど、徳義は腐敗を極めて、社会の綱紀頽廃し、人心浮薄に流れて国民の精神萎靡す」

と評し、日清戦争勝利の栄光や日清戦争後の社会の物質的な豊かさと対比して、精神的な退廃が進んでいるという現状を指摘する。
そして、そのような「腐敗極まれる」社会の根底をなすものとして、当時における教育界、学校、教師の在り方にも痛烈な批判を述べる。


「教育界は自ら一種の城壁を築いて其の裡に籠居し、世間に顔出しするのも好まねば、世間より覗かるるをも好まず。所謂教育家なるものは殆ど世上の趨勢何の状なるを知らずして、之に順応するの心懸だになければ、まして自ら進んで世を動かさんなどとは、かけてもおもひよらぬところなり。中学教師もまたおほくはこの類に属し、中に就いて多少の見識を有する者も、その心を労するところはは概ね区々たる末節にありて、大体の上より利弊得失を研究し世と共に之が改善の策を講ぜんとするものに至つては絶無といふも不可なし。かくて中等教育の実相は殆ど世間に知了せられず」


教育界は自らの「城壁」に閉じこもり、社会と乖離している状況であり、利害関係ばかり研究して、社会をよりよく改善していこうという姿勢は教師に皆無であるという。

そして、その後続けて、

「未来の法治国民たるべき中等社会の青年を教育するものが、かく公共の思想なく、参政の観念なきは、其の平生教授する用意のほども思いやらるるなり」

と、政治的参加の意識を持たず、実社会との乖離を推し進めている学校や教師の在り方を糾弾する。


学生に対しては、「自重自尊の念」が「乏し」いことをまず挙げ 、

「現時中学生徒の実状は、単に教科書を暗記し、教師の講義を鵜呑みにするにのみ力を尽し、毫も自ら考察し錬磨することなし。されば所謂勉強家は、よく其の学びたるところを繰返すを得、よく之を脳裡にとどむと雖も、記憶するところは累々たる零砕の事実にして、之を咀嚼し之を消化することなければ、従つて之を己が「思想」として自覚すること能はず。又た之を応用するの能力なく、畢竟何等の知識をも得ざるものたるなり。其の劣れるものに至つては、試験前の数日、寝食を廃して、かかる暗記に心を労するも、実は其の何の意たるを知らずして、徒に言説文句を読誦するのみなれば、試験後の数日、早く既に其の大半を忘却し去るを常とす」

と、勉強ができるものとそうでないもの両方において、学ぶことに意味を見出さず、事象の単なる暗記に邁進し、結局のところ知識も失い、思考に結びつかない状況に陥っている現状を赤裸々に語る。

そして、このような学生の現状があるから「独創の意見を立つるもの」が「甚だ少」いと憂いている。

このように、学生に対しては、単なる暗記という単純作業に徹し、自らの「思想」を深めず、それを応用するための知識と学力が欠如していることを批判する。


要約して言えば、自分自身が生きる社会に対する問題意識を持ち、その問題意識のもと見方や考え方を働かせることのできない教師や生徒、学校の現状に、津田自身は問題意識を持っていると言えるだろう。


以上のような津田の問題意識が、極めて現代日本の問題として読めてしまうところに、日本の中等教育の大きな課題があると言えそうである。

津田が中等教育の教員として生活していた時期からおよそ130年という時間が経った。
津田の問題意識に現代を生きる私たちはいかに応答することができるだろうか。

津田左右吉の議論については、学部の卒論で検討したが、改めて明治期における津田の教育に対する問題意識や、歴史教育論などを論文として纏めていきたいと考えている。


津田左右吉田「中等教育に於ける欠陥を論ず」( 執筆時期は日清戦争後の後の一九〇〇年頃と推定される) 『津田左右吉全集補巻二』( 岩波書店、一九八九年)

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