「生活者」として

 私たちの生活は、一義的な定義では成り立たない様々な要素から成立している。生きていくという営みそのものが「生活」であり、極めて実践的な営みである。

地歴公民科が、「社会科」と命名される時、「社会」は極めてオフィシャルな領域で語られる。同時に、「生活」は極めてプライベートな領域に落とし込まれている。そうした公私の分離を脱し、社会的なものと個人的なものが接合した「生活者」の視点をいかに模索していくか、以下に、授業実践の可能性を考察してみたい。


生活が多義的な意味を有する事は上に延べた。 同時に私たちは「生活者」として、社会における経済活動の一翼を担っている。しかし、自明の事柄であるこの属性を改めて考慮すると、極めて多義的な概念を包摂しているのである。
例えば、天野正子が指摘するように、「生活者」の範疇には、「生産者」も「消費者」も「労働者」であることも含まれる 。つまり、日常生活を送る中で経済的な役割を規定する生産者・消費者・労働者としての属性は多用されるのに対し、これらを包摂した「生活者」という言葉は、「生活」という語句そのものが持つ使用頻度に比べ、あまりにも限定されているのではないだろうか。

これは、「生活」の中にある生産・消費・労働等の経済的行動が分化され、これらを自己の生活と相互に結びつけ思考する機会が少ないからこそ、「生活者」としての自己像が曖昧になるのではないだろうか。そして、様々な活動に分化された「生活」に残された意味は、極めて個人的な生命活動に限定されていくのである。
こうした意識は、担当している生徒の「生活」という概念に対するアンケートにおいて、「生活」を極めて個人的な生命活動に限定して認識している事実にもある。それは、多義的な「生活者」として「生活」そのものへの着目を行う機会が限定されていることを示す。
以上のように、個人の生活が極めて個人的な生命活動として認識するのではなく、社会問題そのものであり、社会との関係の中でこそ問われなければならないということが意味をもつだろう。

 人間は生きている限り、世界や社会と無関係な「生活者」でないことはあり得ないのであるならば、改めて自己が主体的な「生活者」としていかに社会と接続していくかは、「生活者」が多様な側面を有する概念であるからこその可能性に満ち溢れていると言えるだろう。

 経済という言葉が本来「経世済民」にあり、人々のよりよい生活の実現を目指すところに本質があることを考慮した時、社会の中の主体として、個人の生活と企業の営利活動と政府の方針の関係は重要な意味を持つ。特に、戦後日本社会では、「経済成長」が追い求められてきた過程で発生した公害は、人々の生活や人権に危機をもたらした歴史として記憶されている。

水俣病を事例に考えてみよう。

「奇病」とされた病気が、公式確認から公害認定まで長い期間を有し、被害を拡大させた事実、それを擁護した行政の在り方、水俣市民への差別、現在まで続く差別や患者認定の訴訟などを総合的に考慮すると、それは、企業の営利活動と国家の「経済成長」が最優先にされ個人の生活が犠牲にされた事実を掘り下げるに留まらない。

以上の事情に加え、「水俣病」患者を差別した第三者の意識に着目することで、病気を避けて自己の生活の「安心」を求める個人の意識が加害性を有することへの想像力につなげられる。そして、「水俣病」と名付けられたこの公害の名称について、こうした多岐にわたる問題を抱えながら生活が営まれている事実を自覚する必要にせまられる。

企業の果てしない利潤追求が「水俣病」という歴史的人災を引き起こした。その利潤追求の裏に犠牲になった人々の存在は、改めて企業の在り方や「経済成長」を問い直す機会となるだろう。そして、「経済成長」の「恩恵」を受けている私たちの意識そのものを問い直すのだ。


 現代社会においては、利潤追求と「経済成長」が個人の生活を犠牲にする構図は解消していない。

例えば、生徒の生活を取り巻く現状としても労働者をめぐる問題は、典型的な課題として深刻である。森岡孝二は、現代社会を「雇用身分社会」と定義し、正規労働者と非正規雇用労働者の深刻な給与格差や、性差による格差、業種による格差を描き出している。そこでは、本来生活するための労働が、目的転換し労働そのものに価値が置かれる「働きすぎ」の社会の実態が迫っている 。

このように「働きすぎ」の社会の中で、個人の生活が犠牲にされ、自ら命を絶つ「過労自殺」や、疾患による「過労死」という言葉が当然のように個人の生活に隣接しているのである 。これらの問題は、個人の生活の在り方を考えていく上で最も身近な問題であり、「働くこと」が当然視されている社会の中で、軽視されている問題ではないだろうか。

長時間労働が是とされる状況は生徒を取り巻く学校教育も同様である。定時を超過することが当然となり、過労死ラインを越える教員が中学校では36%も存在する事実は重い 。

自己の在り方を模索する中等教育の時期において、生徒たちは教員たちの長時間労働と「生活の質」を観察しているのである。

更に、自らの生活状況の在り方を直視しない無自覚な教員によって展開される問題は特に根深い。
本来、学校教育の「教育課程外」として位置付けられるはずの部活動が当然のように教育活動の本丸に組み込まれ、規定されているはずのガイドラインからの逸脱が当然視されている現実は、生徒の生活に深刻な悪影響を及ぼしていると言えるだろう 。

こうした、自らを取り巻く環境こそが、社会問題そのものである。

「生活者」として探究して行く中で、最終的に生徒は、自身が問題意識を持つ社会問題を探究し、自身の生活への意識に繋げていく。

探究を通じ、社会問題に自覚的になること。生活の中で当然視されている内容には、個人の人権侵害を含めた問題が存在すること。そのような課題の改善を模索していくことが、個人の生活への改善と社会そのものを改善していく原動力となる意識を醸成したい。

それは、胎児性水俣病患者の長井勇から、ユージン・スミスが

「長井! 何ものにも長井を押さえつけることはできない。彼は、はい、しがみつき、ひっつかむ。8ミリカメラを手に入れた。水俣病患者の施設に入れられていること、そうさせた会社のことを映画にして「チッソばこん世から、ぶっとばしてくっるる」と心に決めている。 」

と観察したように、「胎児性水俣病患者」という覆すことが出来ない自らの逆境に対し、それに抗い乗り越えようとする決意に、生徒が正対し示唆を受ける営みでもある。

教育の目的は、「社会に役立つ人材」を育成するためにあるのではない。
自己が生活する社会の問題を自覚し、自己の生活と社会の改善に向け模索を続ける「生活者」の育成にこそ意味がある。
それは、以上のように、自己の生活の在り方を社会問題として問い直すことは、生徒一人一人が、「生活者」として、様々な主体が展開する経済活動の中にある「生活への脅威」を改めて自覚することである。そして、社会の部品として規律化され、人的資源として消費され、他者と競争し、蹴落とし、日々成果に追われ、ガンバルように仕向けられ、自己の個性が崩壊していく現代社会 に対して異議申し立てを重ねていくことにその真価を発揮するのである。

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