勝ちと負け
ナンセンスなお話なんだけど、
それぞれの人間の人生を勝ち組負け組に分けたときに、僕の人生はどっちにも分類できないのだと思ってしまう。
それどころか、どっちにも分類できないパットしない人生、普通の生き様もできていないあぶれものなんだと最近考えている
勝ち組になれないのは、今思えば漠然と小さい頃には自覚していた気がする。そこに歯向かおうとしてたのも思い出してなんか嫌な気持ち
小さい頃、ほんと保育園の頃から演じることが大好きで、でもどこかいじめられっ子の精神が染み付いてて、
結構覚えてるもんだなあ。保育園で劇をやったときの話。皆一役する動物が割り当てられてて(自分はなんの動物だったっけ)最後一役+αでナレーターを先生が募集してた。勇気振り絞って立候補した。今思えばそれが始まり
そっから演劇やるたびにナレーターやろうとして、当然将来の夢はナレーターだった。
それでもやっぱり主人公役に憧れて、国語の音読の時間は凄く楽しかった。自分の大好きなナレーターに近い文章も、主人公の台詞も半強制でやれること、最高に楽しかった。先生が僕一人に教えをしてくれた学芸会の放課後練習も自分の劇が終わった舞台袖の体育館裏にわざわざ来てくれた図工と家庭科の先生も。ほんと人生のピークだな。
やっぱりこの頃から主役側にはなれないと自覚してた。負け癖がついてた。何度もステージから少し離れたとこでナレーションをしながら、負けを噛み締めてた。でもその何倍も失敗を恐れてた。目立って顔出してその先の失敗を恐れていた。
最近になって病んだり、周囲を恨んだり自分を責めるたびに達観して、負け組にすららなれないと痛感してきた。自分より圧倒的に不幸な人もいて、精神に病名をつけてる人もいて、目に見えた形じゃ少なくとも数え切れないほど自分より、、、
かと言ってパットしない普通すぎるだけの人生も送れてない。
てかそれってわりかし勝ち組じゃね。何なんだ。普通の人生送れてるだけで勝ち組じゃねえか。
負け組の人生と勝ち組の人生は棒線グラフにすんならグラデーションなのかな
書いてたら訳わかんない自分語りから変な帰着しちゃった。要は万人が万人羨ましいんだよな
お休み
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