【だいたい2000字小説】 結露
二ヶ月ぶりの実家は、他人のそれのようだった。長らく締め切った部屋の淀んだ空気に、私の足は玄関で軽く沈んだ。
父から私たち三姉妹に一斉連絡があったのは、その週の中頃だった。
「今月末に302号室を売りに出します。各自、自室の荷物を片付けるよう」
相変わらず勝手な男だ。それまで私たちには事前に何の相談もなく、決定事項がいつも一方的に告げられる。今回の実家の売却も、幼馴染という女性との再婚も……。
姉は二人目の子を産んだばかりで動けず、東京の大学に通う妹はこちらに帰る航空券の予約がなかなか取れなくて、その週末に実家に行けるのは私一人だった。
両親が熟年離婚して丸三年、私が実家を出て二ヶ月。私が出るのを待っていたかのようなタイミングだった。父は、再婚して以降生活の拠点を再婚相手の元に移しており、この家に帰ることはほぼなかった。誰も住まないなら所有するだけ無駄、売却してローン返済に充てるとか何とか話していた。
私がかつて使っていた部屋は、玄関を入ってすぐ右手にある。少しでも換気に役立てばと開け放して出た部屋のドアは、二ヶ月前と変わらなかった。四畳半程の部屋を見渡す。今必要な物は既に持ち出してあったから、卒業アルバムをはじめとした思い出の品々を整理しに来たようなものだった。ベッドと机は、リサイクル業者が取りにくると聞いている。机の上には学部時代の専門書がまだ並んでいたし、机の中には中高時代の休み時間に友達とやりとりした手紙が入っている。他の人に見られるのは嫌だから、机まわりから始めることにした。もう旧版になったことを確かめて、専門書たちを紐で括った。先生や親の愚痴、部活でのままならない日々をやりとりした手紙たちは、当時を懐かしむには十分だったけれどそれ以上の何者でもなかったから紙袋に入れてきつく絞って燃えるゴミの袋に捨てた。転校して会えなくなった親友からの手紙が二、三あって、「同じ人を好きになっちゃった。ごめん」とか告白めいた内容のものもあったから、それを書いた当時の親友の気持ちを思うと何だか捨てきれなくて、また読み返すかどうかなんてわからないけれど、ひとまず現在の住まいへ持ち帰ることにした。
壁には、好きだったアイドルのポスターなどを画鋲を使って貼っていた。きっと外して出たほうがいいのだろうと考えながら、壁から画鋲を外していく。初めてポスターを貼っていた日、私を呼びに来た母が、まっさらな壁に画鋲を刺す私を見て眉をしかめていたっけ。画鋲で壁に穴が開くのを嫌がった母は、あの頃から離婚を考えていたのだろうか。
少し休憩しようとリビングに入った。チェアが三脚とその向かいに長ベンチを備えたダイニングセット。私は、一番手前のチェアを引いた。テーブルの奥の方には、長らく開いていなかった家族写真のアルバムが律儀に整列していた。開く勇気は、なかった。私は、ペットボトルの甘くない紅茶を一口飲んでため息をついた。手元のダイニングテーブルには、版画の宿題をしていた妹が間違えて彫刻刀で掘ってしまった傷がある。何となく、その傷をなぞっていた。
台風で停電したなか懐中電灯を灯しながらしたカードゲーム
各々のバースデーに五人でつついたホールのミルフィーユ
週末の鍋を囲みながら見つめた窓の結露
停電も、切り分けられないミルフィーユも、窓の結露さえ、不便で不快で楽しかった何もかもが、もう戻れないというだけで、愛しくて悲しくて彫刻刀のように鋭く私を襲ってきた。
「おー、おかえり」
帰宅すると、同棲しているりょうちゃんが夕食の準備をしていた。
今夜は鶏の塩鍋です、そう言って市販の出汁キューブをちらつかせて笑う。私の好きな味を、よく理解してくれている。
母の作る鍋はだいたい昆布出汁のシンプルな寄せ鍋だったことを思い出しながら、キューブが溶けていく様子を眺めていた。昆布から出汁が出るのを待たなくても、簡単なもので良かったのに。市販の鍋だしなら、ポン酢が切れてても、途中で買いに行くことなく食べ進められたのに。ごめんと困ったように作り笑いをした母の顔が、湯気の中に浮かんで消えた。
りょうちゃんの作ってくれた鍋は、いつも通り美味しかった。甘く溶けた白菜を食みながら、幸せだなと思った。私は、この時間がずっと続けばいいと祈った。
「りょうちゃん」鍋の上で何をよそうか迷っていた視線が私を捉える。それを確認してから、「ただいま」と鍋の向こうの彼に言った。
「急に何さ」と彼は笑った。りょうちゃんは、私が今日実家に行っていたことを知ってて、それ以上何も聞いてこなかった。
彼の背後で閉じているカーテンの裾に目をやると、サッシに無数の水滴が浮かんでいた。きっと、窓は結露している。
寝る前に拭かなきゃと思いながら、また、温かい鍋に手を伸ばした。
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