ピラミッドの階で名前を叫ぶ
この有名なフレーズはしばしば「人はみな平等である」というニュアンスで使われることがあるが、実はそれに続く文章を読んでみると筆者である諭吉が唱えたのはそうではない。
諭吉は「天は人の上に人を造らないと言われているらしいが、実際は学力や貧富、身分等で差がついている」
「だからその様な差を埋め、作らない様に勉強しなさい」と唱えたのである。
天は人に上下を造らない、かも知れない。
人に上下を造るのは「人」だと私は考える。
学力や貧富、身分の差にしたってそれを基準とする社会をつくったのは人々だ。社会の影響以外にも人は保身のために上下を生み出すものである。
保身というのはコミニュケーションを円滑にしようとする自己防衛的な側面もあるし、自分より下を造ることで自己顕示欲や承認欲求を満たし心を保っている側面もあると思う。
面白い(interesting)のは匿名性の高いオンライン上において生身のユーザーを深く知らない間柄でもそれが行われること。一体何を基準にして上下を作るのだろう。互いの詳細なスペックを知らない状態で。
何かしら基準を設けたとしてもそれはカテゴリー内ランキング、何かしら一部であって、人そのものを比較出来てはいないのではないか。カテゴリーに関係のある有効なスキルを比べただけに過ぎない。それなのに時折それが人としての発言権や影響力として作用されている様な場面が見つけられるのだ。
例えば、かけっこの場がある。当然結果は順位として出てくる。あくまでそれは「足の速さ」の順位である。しかし、それが「人そのもの」の順位になってしまっている場面が少なからずあるということである。
足の速さが社会の中で影響力を持つ環境なら速さ=人そのものの上下が自ずと成り立ってしまうのだろうが。そういう広域な話ではなく、このケースはかなり狭いところの話で、しかも大体は自分にとって都合の良い・好ましいカテゴリーであることが多い様に感じる。◯◯が得意な人が◯◯の出来や評価で勝手に自分よりも上・下を造るという感じだろうか。だからこそ他人を羨んだり、悔しがったり、嫉妬したりするのかも知れない。
いや。もしかしたら上下を造るとは少し違っていて、自分自身の位置を無意識に決めているのかも知れない。的確に自身を位置づける人もいれば、積極的・消極的な位置づけになってしまう人もいる。それが過大・過小評価と言われるものではないか。
「単にネット上でのマウンティングに対して苛ついているのか?」と感じながらこの文章を読む人はいるだろう。マウンティングに関してはネット上に限らず気持ちが良いものではないが、今回は上記に書いた通り興味の方が強いのだ。
現代は競争社会というのもあるが、例えその影響がなくとも人は何かしらのピラミッドを作り、その中に自分を位置づけて行く様な気がする。
けれど、そんな小さなピラミッドの頂点にいるのはラー(太陽神)ではなくあくまで人である。よって誰かを神の様に扱う必要もなければ、神の様に振る舞う必要もないだろう。と思うのであるが、人は天を特別視するものであるからして自分の位置よりも遥か上にいる(と自身が感じる)存在から影響を受けてしまうのかも知れない。
天に昇ると足はなくなるらしい(笑)が、人が生きるには地に足をつけなければならない。その地の部分を人は自ら階層化して造っている?他人との繋がりを求めて・カテゴリーを共有して、そうやって出来た狭いコミュニティの小さなピラミッドの中でも生存していると。
「私はこのピラミッドのここにいる!」
それもまたアイデンティティなのかも知れない。良くも悪くも。
りあくえ水曜担当
ミラクルファンタジスタKeroco
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