見出し画像

荒浜小学校へ行き、初めて感じた震災の傷のこと。

「震災を、自分の目と耳と肌で感じたい」

そう常々考えていました。



先日、コンサートの為に宮城へ行った時のこと。
早めに着いた私は、その足で荒井駅へと向かいました。
目的は、仙台市立荒浜小学校です。

荒井駅からバスに揺られること約15分。窓から見える空はとても広く感じた。

バスを降りてすぐそばに学校はありました。


津波は二階まで押し寄せてきたそうです。


ぐにゃりと曲がった鉄製の柵が津波の威力を物語っていて、この強大な力が一階を丸のみにして、二階まで押し寄せてきたのかと想像すると、12年経った今、ようやくその恐ろしさを実感しました。
いつもは何の変哲もない、手からすり抜けるだけの水が、あっという間にすべてを壊して奪うほどの存在になる。それほどに恐ろしいものなんだと。


天井がはがれている校内。傷だらけの教室や給食室。目にするたびにこみあげてくる行き場のない虚無感。
しんと静まり返ったここだけが、あの時のまま、そこにありました。


震災を忘れちゃいけないと自分に言ってきましたが、それも結局上辺だけに過ぎなかったことを反省。


屋上にも上がれたので行ってみました。



当時、学校の屋上には生徒や教師、近隣住民の方が避難してきたそうです。
助けを待ちながらここで見ていた方の目には、押し寄せる波や流されていく木々・建物がどううつったんだろう。学校に通っていた子供たちは、どう感じたんだろう。
言葉にすると一気に小さくなってしまいますが、想像するだけで心が痛みました。


そしてその時、ようやく気付いたのです。

まわりになにもないことを。

小学校へ向かうバスから見上げた空が広かったのも、遮るものがなにもなかったから。



本当に真っ平らで、高い建物はこの小学校くらい。
あとはなにもなくて、広い空が妙に近くに感じられ、遠い向こう側に太平洋も見えるのです。

これが私にとって一番衝撃的で、あまりにもショックで。この意味に気付いた時、言葉を失ってしまいました。



荒井駅内にある「せんだい3.11メモリアル交流館」にも足を運びました。
館内にはいくつもの書物が並べてあるのですが、中でも忘れられないのが、当時被害にあった小学生の書いた文集です。
そこには地震がきた時、避難している時、救助を待っている時の様子が書かれていて、これまで目にした体験談の中でも一番リアルに感じられました。多分、小学生の子供たちが、その時感じたことを、そのまま言葉にしてくれたからなのかもしれません。


一人の男の子は下校中、立てなくなるほどの大きな揺れを橋の上で感じ、体験したことのない出来事に動けなくなっていたところ、近くにいた高校生のお姉さんが「学校にもどるよ!」と男の子の手を引いてくれたそうです。
他にも校舎へ避難してきた人たちが寒さを凌ぐべく、カーテンを外して体を冷やさないようしていたり、実際に人が流れていくのを目にした時の様子など、そこに紡がれていたのは胸が痛くものばかりでした。


私は当時専門学生で、学校で授業を受けていました。
電車が動かなくなり、ほとんどの生徒が学校で1日を過ごし、食糧調達のために外へ出てもコンビニにもスーパーにもカフェにも、食べるものはなにもなかったのをよく覚えています。
不安で、眠ろうにも眠れず、友達と寄り添いながら目をつぶって朝を待ち、混み合う始発の中なんとか家に帰れました。

ただ、津波は映像でしか見たことがなく、今回こうしてこの目で見ることが出来てよかったです。
よかった、という言葉は果たしてあっているのか分からないけど、ほんの少しだけでも知ることが出来てよかった。そう思います。


荒浜小学校には、男子高校生の団体もいました。  「あの頃、俺まだ5歳とかだったからあまり覚えてないんだよ」
そう話していたのが今でも忘れられません。

5歳だった子が高校生になっている。
ああ、それほどの時間が経っているんだと。経ってしまったんだ、と実感しました。



今回は荒井駅周辺のみでしたが、いつか他の場所もしっかり目と心に焼き付けに行きたい。
できることなんてないかもしれない。だからこそ、せめて忘れないように知っておきたい。
そう強く思うのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?