スラム教育、学校教育、優れているのはどっち?いや、両方大事!
Slumdog Millionaire (2008:英)(スラムドッグ$ミリオネア)
を少し前に授業で観たのですが、非常に面白かったのでエッセイと共に紹介します。
あらすじ
クイズ番組『コウン・バネーガー・カロールパティ』で、主人公のジャマールは次々と難問に正解し、ついに2000万ルピーを賭けた最後の一問だけが残ります。
しかし、スラム街で教育を受けずに育ったジャマールが次々と正解を出す様子から、インチキの疑いをかけられ、逮捕されてしまいます。
彼は拷問に近い尋問を受ける中で、警察に「なぜ答えがわかるのか」と問われ、「僕は答えを知っていたんだ」と答えました。
するともちろんインチキの疑いが濃くなる訳で…
感想のエッセイ
経験からの学習より学校の勉強が評価される世界へ
教育を受けている私たち「普通の人々」は、教育を受けていないインドのスラム街で育った青年が、映画の俳優やヒンドゥー教の神の装備品、百ドル札に書かれた名前、さらにはインドの国章に記された言葉など、私たち自身も知っているかどうか怪しいような「難問」に正解することに疑念を抱くでしょう。
隠す必要はありません。
これは当然のことです。
それどころか、彼の正解をインチキだと疑うこともあるかもしれません。
なぜなら、彼らスラム街生まれの人は教育を受けていないからです。
私たち「教育を受けた者」の方が賢いと考え、私たちが知らないクイズに彼が正解することはあり得ないと思うのも無理はありません。
しかし、ジャマールは違いました。
彼は生きるために様々な過酷な経験を重ねてきました。
例えば唯一の肉親である母親がヒンドゥー教徒の暴動に巻き込まれて亡くなるという悲劇を経験し、その際に見たヒンドゥー教の神の装備品を覚えていたです。
実は、彼は私たちが教育を通じて学んだことを、経験を通じて身につけてきたのです。(それを自分は「スラム教育」と呼んでいます)
だからこそ、彼は「答えを知っていたのです」。
先人たちは経験から法則を見出し、学ぶことを娯楽としてきました。
本来の「学問」は、テストで人を格付けするものではなく、人生で得た知識の集積だったと思います。
私たちはいつからおかしな方向に進んだのでしょうか。
スラム街の住民を自分以下だと錯覚し始めたのはいつからでしょうか。
「人権」を唱えながら、すべての人が平等だと言い張っているのに。
人間は不思議な生き物ですね。
しかし、私たちは大半の人類を好きなんですよね。
「自分は終わっている」「あいつは終わっている」「日本は終わっている」「人類は終わっている」と呟く声をよく聞きますが、実はそう言っている人ほど一番希望を持っているように感じます。
ひねくれつつも素直な人類だからこそ、すれ違いや戦争が絶えず、生まれた場所や肌の色で差別が生まれるのです。
本当に終わっていますね。人類って。
学校教育を受けている身で「学校教育は絶対ではない!」と言うのは、教育から逃げているように感じますが、世の中に訴えたいことがあります。
それは、テストに必要のない勉強をもっと重視してほしいということです。
例えば、雪山登山において、学校のテストを絶対的な評価基準とした場合、「雪山はアイゼンを履いて登り、吹雪の際は低姿勢になり、滑落時には早急にピッケルを地面に刺す」といった知識よりも、「この雪山は○○山で、○○山脈にあり、標高はXXXXm。○○プレートの動きで元は島だった○○半島がぶつかってできた」といった知識が評価されます。
しかし、前者の知識は命に関わります。
極論を言えば、核戦争で文明が崩壊しても、前者のような命に直結する知識は役立ちますが、後者の知識は無意味になります。
もちろん、現代社会は簡単には崩壊しませんから、将来の収入など間接的に命に関わるテスト用の知識も必要です。
それでも、学校のテストを絶対的基準とすることをもう少し緩和してほしいと思います。
要するに学校教育とスラム教育をバランス良く評価するべきです。