![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/77272299/rectangle_large_type_2_8185ea52c680a600cd6dfe96c74cdd90.png?width=1200)
小学生図鑑_スパイ
五年生になり、学級委員長になるのと同時に、ぼくは担任の先生のスパイになってしまった。担任はかなりベテランの女の先生で、ぼくたちの母親と同じくらいの歳だった。クラスメイトたちは先生に反抗的で、何かにつけては文句を言った。他のクラスの先生は若くて元気で、休み時間に一緒にドッジボールや相撲をしたりと楽しそうで、しょっちゅう笑い声が聞こえてきたりした。母親のような先生には、それは望むべくもなく、それもみんなの不満につながっていた。そんなクラスの学級委員長に、ぼくは選ばれた。理由は、なり手がいなかったから。おとなしくて文句も言わない、そんなぼくに白羽の矢がたった。
でもぼくは先生に、クラスのことを頼んだわよ、と言われて、張り切っていた。先生は、自分では御しきれない子どもたちのことを、ぼくに任せようとしたのかもしれないが、そんなことを思いもしないぼくは、自分が先生の代わりになったような気持ちでいた。その気になっていた。先生はルール違反をした生徒に対する罰則を作り、ぼくにその管理を任せた。そして、自分の悪口を言っている子がいたら、こっそり自分に教えるように、ぼくに言った。こうしてぼくは、少しでもルールを破った生徒を厳しく注意し罰則を与え、陰口を叩いているクラスメイトがいれば、嬉々として職員室に行き、先生に報告するような、スパイになった。
ある日、掃除の時間に何かを話していた女の子がいたので、ぼくはすかさず、掃除中におしゃべりをした、という理由で罰則を与えた。それは同じ社宅の同じ階に住んでいた子で、可愛らしい顔をした子だった。正直に言えば、ぼくは、その子の気を惹きたかっただけのだ。自分が優位な立場にいることが、行き過ぎていることに対する感覚を、鈍くさせていたのかもしれない。ぼくの意に反して、その子は、ぼくが罰則を与えた途端、ひどく怒った。おしゃべりをしていたわけではなく、誰がどこを掃除するのかを相談して決めていたのだ、と、鋭く反論をしてきた。きっとそれは本当だったのだろうし、おしゃべり、というようには、ぼくにも見えていなかった。それでもぼくは、素直に謝ることはできなかった。自分の非を認めて引き下がることができなかった。ルール違反はルール違反だ、と、主張し続けた。その結果、その子のお母さんからぼくの母親に、ルール違反をしていないのに罰則を与えられた、という話が伝わった。ぼくの母親は大らかな人だが、間違ったことは許さなかった。母親に、本当のことを言えと言われ、ぼくは自分の非を認めざるを得なかった。母親は、すぐに謝りに行けと言った。廊下に出て、ぼくがその子の家のチャイムを鳴らすところまで、母親は見ていた。逃げられるわけもなく、ぼくは覚悟を決めた。その子の家の中からは、ピアノの音が聴こえていた。チャイムを鳴らすと、その子のお母さんが出てきた。困ったように少し笑って、ごめんなさいね、と、先に謝られてしまった。お母さんが部屋に戻るとピアノの音が止み、クラスメイトの女の子が出てきた。ぼくが謝ると、その子はとても怒った顔をして、もういいよ、と言った。取り消してよね、と。分かった、とぼくは言った。完敗だった。ちょっと気を惹きたかっただけなんだ、とは、言えなかった。
その事件があってぼくは、友だちを取り締まるようなことはイヤだ、と先生に言った。こんなことをしていたら友だちをなくしてしまうから、学級委員長も続けたくないと申し入れた。先生はぼくの気持ちを理解してくれ、そんなことをさせて申し訳なかったと、謝った。でも、先生はぼくのことを信頼をしているから、学級委員長だけは続けてほしいと言った。すぐにその気になってしまうぼくは、分かりました、と、継続することをすんなりと引き受けた。その後のぼくは、所謂普通の学級委員長になった。朝礼の挨拶をしたり、学級会の議事進行をしたり、問題が起きれば解決方法をかんがえたり、先生に相談したり。
ひとつ誤算だったことがある。ぼくはスキーが得意ではなく、好きでもなかったが、冬になるとスキー授業があり、それが苦痛だった。例年、生徒たちは最初に滑って見せて、担任の先生が自分のクラスの生徒を、その技量によって4つのクラスに分類するのだが、ぼくはいつも一番下かその上だった。ただ、その年だけは、先生に贔屓にされていたぼくは、先生の良かれと思った差配によって、一番上のクラスに分類されてしまった。その結果、今まで滑行ったこともない山の高所までリフトで登り、下の見えないような急坂を何度も何度も滑らされることになった。周りは上手な子ばかりで、ぼくはついて行くのが精一杯、何故こいつがこのクラスにいるのか、という目で見られながら、ただただ必死に恐怖に耐え忍ぶ、という苦行を味わうこととなった。
権利や権力を手にした時、人はある大事な感覚が鈍くなり、振り上げた拳を置く場所を、自ら手放すようなことをする。そして裸の王様になり、意地になり、エスカレートする。
危うくそうなりかけたぼくは、母親のおかげで、今もそうはなるまいと常に思っている。今、同じ階に住んでいたクラスメイトの子に会ったら、あの時の自分は権力を手にして何かに憑依されていたのだ、と言おう。あなたの気を引きたかっただけなんだ、と素直に言おう。尤も、そんなことは憶えていないどころか、ぼくのことも憶えていないだろうけど。