見出し画像

ミクロ

ミクロは人気者だった。野球のリトルリーグのチームに入っていて、いつもそのチームの帽子をかぶっていた。日焼けした顔が子どもながらに爽やかで、眩しかった。少しだけ外国人とのハーフのような顔つきで、ミクロマンのようなので、ミクロ、と呼ばれていた。いつも笑っているような表情をたたえて、誰にでも優しかった。もちろん足も速く、運動会でもスターのひとりだった。ぼくなどは、ミクロが徒競走やリレーで他のスターに抜かされたりすると、密かに悔しがったものだ。でも、抜かされた相手もやはり同じリトルリーグのチームメイトで、ミクロは負けてもいつもニコニコと笑って、チームメイトと話していた。そしてやはり、ぼくなどは、そんなミクロを、勝手に歯痒いと思ったり、羨ましいと思ったりしていた。
ミクロとぼくは、同じ社宅に住んでいた。つまり、父親が同じ会社に勤めていた、ということだ。かなり大きな会社の大きな社宅で、同級生が10人くらいは住んでいた。みんなもちろん顔見知りで、仲のいい同級生もいたが、ミクロとぼくは、5年生で同じクラスになるまでは、口をきいたこともなく、ミクロをミクロと呼んだことも、もちろんなかった。ぼくが勝手にミクロ、と心の中で呼んでいただけだ。
その頃ぼくは優等生でも劣等生でもなく、運動が得意なわけでも、かと言って不得意なわけでもなく、唯一人並み以上にできることが、水泳だった。でも、水泳なんて、学校ではほんの短い期間の授業しかなく、しかもクラス全員での水泳の授業では、文字通り芋を洗うような状態で、唯一の特技が脚光を浴びるような機会など訪れもしなかったので、ぼくがスターになることは、なかった。
ところが、運命的なことに、ミクロが唯一と言っていいほど不得意だったのが、水泳だった。ぼくが水泳を習っていることは、親同士の情報交換の中でミクロも知っていたのだろう。ある日の水泳の授業でミクロから、水泳習ってるんでしょ?と声をかけてきたのだった。
それ以来、ぼくとミクロはよく話をするようになった。普段はリトルリーグの練習や試合で忙しいのだが、練習が休みの日や雨の日などは、ミクロの方から声をかけてきて、ぼくたちは2人で遊ぶようにもなった。どうして人気者のミクロが、ぼくのような目立たない普通の同級生と仲良くしてくれるのか、ぼくには分からなかったが、ミクロと遊ぶのはとても楽しかった。時には、ゴミ箱に落ちていた何かの錠剤と、その辺りになっていた植物の実をすり潰して、得体の知れない薬を作って、捕まえた虫にかけてみたり、時には近くの山へ行って探検ごっこをしたりした。ある時、山でエッチな本を見つけたことがあった。女の人の裸が載っていて、大事なところには何もなくて、ぼくたちは、女の人のあそこはツルンツルンだ!と言って、興奮しながら大笑いをした。その本を秘密の場所に隠して、何度もこっそりと見に行っては、飽きもせず大笑いをした。学校で会うと、声には出さずに、ツルンツルン、と口を動かして、笑い合ったりした。そんな他愛もない遊びを、ぼくたちはたくさんした。ぼくらは、幼く、適度に無知で、そして始まったばかりの輝きで満ちていた。ぼくは、ミクロと自分しか知らないことがあることが、とても嬉しかった。ミクロは、人気者だったのに、決して他の友だちにはぼくとの秘密の場所や、ツルンツルンの話を教えたりせず、本当に2人だけの秘密を守ってくれていた。ミクロが人気者なのは、ぼくたちの母親の中でも有名で、ぼくの母親も、人気者のミクロがぼくと仲良くしてくれるのが嬉しいようだった。

6年生の夏、親の転勤でミクロが引っ越していった。転勤の話は母親から聞いた。子どものぼくには、転勤とは何なのかがよく分かっていなかったが、ぼく自身も転校の経験があったので、転勤イコール引っ越しで、転校していってしまうということは分かった。ミクロは、最後に野球の選手の柄がついた鉛筆1ダースと、同じ絵柄の消しゴムをぼくにくれた。すげぇ楽しかった、と、いつもの爽やかな笑顔で、ミクロは言ってくれた。またいつか、隠れ家に行って、ツルンツルン見ようぜ、と。ミクロに、何故こんなぼくと仲良くしてくれたのか、何故一緒に遊んでくれたのか聞こうとしたが、最後まで聞けなかった。

ミクロが引っ越した後、ぼくたちは連絡を取り合ったりすることはなかった。親に訊けばミクロの住所は分かったはずで、手紙を書こうと思えば書けたのに、ぼくはそうしなかった。ミクロに手紙を書くということがなんとなく恥ずかしかったのと、ミクロはぼくのことはすぐに忘れてしまうだろうと思ったからだ。ミクロは引っ越した先でもスターで、新しい友だちがたくさんできるに違いなかった。その証拠に、ミクロからも手紙が来たことは、一度もなかった。

大人になった今考えると、あの時のミクロは、自由なぼくが羨ましかったのではないか、と思ったりしている。いつもスターで、野球でも運動会でもいつも注目されていて、気が抜けなかったのではないか、と。誰にも注目されず、好きなことを好きなようにやっていたぼくは、ミクロにとってだけは、スターだったのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!