みかん泥棒
ぼくの家族が住んでいた部屋は、社宅の2階の一番端の角部屋で、部屋の前を人が行き来しないので、冬は冷蔵庫代わりに、廊下に野菜や果物を置いたりしていたのだが、ある時から、廊下に箱ごと置いてあるミカンが少しずつ無くなるようになった。初めのうちは気のせいかと思ったが、量が少なくなってくると減りが目立つようになり、あれ?と思うことが多くなった。同じ社宅の人がそんなことをすることもないから、外からやってきた誰かがこっそり盗っていっているのではないか、ということになった。物騒だし、泥棒なら警察官を呼ばなくては、と。
でも、ある時、ぼくは犯人を突き止めた。
社宅は割と大きく、48戸が入っていた。一階8戸の6階建なので、エレベーターもあった。一階にはソファが設置された歓談スペースのようなものが、そして地下には全戸分の物置があったので、子どもたちには絶好の遊び場だった。社宅の子どもたちだけではなく、外の子どもたちも沢山遊びに来ていた。ある日みんなで遊んだあと、ベランダから、外から来ていた子どもたちが帰っていくのをなんとなく見ていると、同級生のひとりがミカンを右手でポーンポーンと放り投げながら帰っていくのが見えた。さっき一緒に遊んでいた時は、何も持っていなかったのだ。彼の左腕は幼い頃に事故で失われており、義手だったので、左手に隠し持っていることなど、できなかったはずだった。
一度、彼の誕生日に呼ばれて行ったことがあった。いわゆる公団のような、クリーム色というよりは黄土色の古い団地で、階段は薄暗く、ヒンヤリとした感じがした。お母さんと、まだ幼稚園に上がったばかりくらいの、鼻を垂らした妹がぼくらを出迎えてくれた。座って、と言われたのは、小さな四角いちゃぶ台のようなテーブルで、5人で行ったぼくたちは、肩を寄せ合いながら座らなければならないほどだった。あまり用意はできなかったけど、とお母さんが出してくれたのは、スーパーで買ってきたと思しき唐揚げやマカロニサラダ、あとは赤いウィンナーや魚肉ソーセージなどだった。それぞれが用意したプレゼントとを渡して、お誕生日おめでとう、と言って、ぼくらはそれを、あまりお喋りもせずに静かに食べた。食事を終えたあと、カステラにロウソクが立てられたものが出されて、火が灯された。ハッピーバースデートゥーユーを歌った後、主役がロウソクの火を消して、誕生会は終わった。最後にお母さんが、みんなで写真を撮りましょう、と言い、ぼくらはみんなで屋上に上がった。お母さんが用意した、その日の日付と彼のフルネームが書かれた画用紙を、ぼくらはみんなで手を伸ばして持ち、彼の左腕を隠すようにして、写真を撮った。帰り際に、お母さんがくれたのは、銀紙に包まれた、板チョコの半分ずつだった。
彼がミカンを持って帰った翌日、ぼくは彼に、うちのミカンを盗っただろう、と詰め寄った。彼は、盗ってなんかいない、とシラを切った。じゃあ、遊んでいた時には持っていなかったのに、何で帰りには持っていたんだ、と、ぼくは更に問い詰めた。それでも彼は、あれは貰ったんだ、おれが盗ったという証拠でもあるのか、と開き直った。ぼくは、ぼくの家のものが黙って盗られるのが、本当に嫌だった。もうお前は友だちじゃない、ドロボウの友だちなんかいらない、とぼくは言った。
ぼくは、貧困や劣悪な環境が故の事件が起こると、時々このことを思い出す。そして、とても複雑な気持ちになる。貧しいことや障害のあることが、何か正しくないことをすることのエクスキューズには、決してならないはずだと思う一方で、もし自分が彼の立場だったら、ぼくも負けてしまうのではないか、と。そして、歩みを止めまいとするのは、心の余裕を失わないための手段を得るためであるはずなのに、いつの間にか心の余裕を失ってしまっていることが、往々にして、ある。