ゆらめき(ショートストーリー)
初めてはいつだったか。
初めて彼を意識した日
初めて彼の横顔を間近で見た日
初めて彼が私だけに笑顔を向けた日
初めて彼の指に触れた日
初めて彼の唇が触れた日
初めて彼が私の身体に触れた日
すべてが朧げで、今は彼の顔すらはっきりと思い出せない。
最近多忙だから、脳内メモリーのキャパシティオーバーでいつの間にか消去されてしまったのか。
それとも、無理矢理思い出を封印したからか。
日々は時に残酷に、そして正確に流れてゆき記憶はいつしか忘却へと移りゆく。
夢を見た。
起きた時、涙を流す自分がいた。
だが、夢の内容は思い出せない。
通勤電車の中で、彼と同じありふれた名前の男性とその友人が会話をしている。
その男性が彼ではない事は明白だが、彼を失った今はその男性が彼であろうとなかろうと大差のないことだ。
大差は、ないのだろうか。
もし目の前にいる男性が彼だったら?
今、目の前に彼がいたら?
私はどうするのだろう。
今日は暑い。
アスファルトがじりじりと灼きつけるような熱を帯び、大気をゆらめかせる。
この感情も、この灼熱の都市に呑み込まれていく。
翌朝、じっとり汗をかいて起きた。
夢の一部を今日は覚えている。
彼が、私の名前を呼んでいた。
冷蔵庫に入った麦茶を取り出し、飲み干す。
こんなに汗をかいているのに、部屋は空虚で寒々しささえ感じる。
時が解決すること。
そうではないこと。
この区別も、今は曖昧だ。
デジタル時計が午前5時を示している。
もう一眠りしなくては。
うつらうつらして、次第に眠りの世界へ誘われる。
そこで笑っているのは誰?
答えは分かっているが、それを認める勇気がない。
ああ、どうか夢なら醒めないで。
そう願うのは夢の中の私か、それとも現実の私なのか。
ゆらめく世界の中で、私は迷いながら求め続ける。
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