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大人になりたくない
けれど子どもだと思われるのも嫌だ。
2024年明けて早くも4ヶ月が経ちましたね、
みなさまいかがお過ごしでしょうか。
私は、今年の春で社会人3年目を迎えるのですが、
最近大人になることを実感して若干絶望に陥っています。
大人の階段
学生の頃はもちろん、社会人一年目は、セクシュアルマイノリティとしての自我を保ち、不平等な現実を少しでも良くできるように、いろんな出来事に目を向けるぞう!日々立ち向かっていくぞう!という気持ち満々だった。
SNSで発信をしたり、親愛なるフレンドと動画配信もしていたしね。
それは仕事場でも同じで、差別的な言葉や行動に加担しないようにと肝に銘じて日々過ごしていた。
でもこれってある意味、みんなが『普通』だと認知していることに対して常に反発しているようなもので、正直ほんと疲れてきている。
私はノンバイナリーで男女規範に当てはめられることがとても嫌だから、自分も第一に性別で物事を語らないように気をつけているのだけれど、社会は真逆で、外見だけでこちらの性別を決めつけてくる。初めの頃はそれでいちいち傷ついて泣いたりしていたのだけど、今はそれで落ち込むことがかなり減った。強靭なメンタルを装着できたとも言えるかもしれないけれど、どちらかというとこれは心が麻痺してきた感覚。
これらが私に起きたここ最近二年の変化なのだが、振り返った時にふと、もしかしてこれが大人になるということなの?と思ったのです。
大人ってなに
そもそも大人になるって何なんだろうか。
働いていること?自立していること?
家庭を持っていること?
波風立てずに世の中を生きていくこと?
嫌なことがあっても我慢できること?
少しの不正には目をつぶること?
こう書いてみるとなんだかとても悲しいし、
もし、これが本当に大人になることならば、私は大人になんてならなくていいと思ってしまう。
一人前の人間
実を言うと、自分の中で大人になること、一人前になることが最重要だと思い込んでいた時期があったし、正直まだそうかもしれない。
親元から離れ、正規職について、自分の生活を自分のお金で成り立たせる。
今思い返すと自分でも引いてしまうような思考だけれど、
世の中の『普通』から外れている自分ができるだけ『普通』に近づくためにはそういう大人になることが必要だと信じ込んでいた。
でも、実際にその大人へ近づいていると気がついた時に急に怖くなった。
本当の自分を置き去りにして私はなにを追い求めているのだろうかと。
わがまま
何かを犠牲にしてまで大人になりたくない、
自分の心を傷つけないよう正直に生きたい。
こういう考えって子どもっぽい、綺麗事だと言われるだろうね、自分でもたまにそう思ってしまうし。
みんなが当たり前に出来ている『普通』に近づきたいけど、
その固定観念に捉われた『普通』になるために、
『普通』であれば必要のなかったであろう努力はしたくない。
なんともわがままで自分のことだけしか考えてない人間なんだと本気で自分に嫌気がさすこともある。
そのままの自分で生きていきたい
大人への階段を順調に登ってしまっていることに気がつき絶望して、
じゃあ私はいったいどうなりたいのかと考え始めると、
今まで無意識のうちに押さえ込んでいた、自分を偽らずにそのままの自分で生きていきたいという強い想いが溢れてきた。
それは言い換えると、ノンバイナリーであることを当たり前に認知される環境にいたいということ。
これは大人にならない訳でもないし、子どもっぽい訳でもない、と思う。
『普通』という皆んなが信じ込んでいる、あるようで無いものを追い求めるのはやめにして、自分を生きたい。思うことは簡単だけれど実現するのだろうか。
現実から逃げずに、自分の道を開拓していかなければならない。
そのためには家族や近い人たちにカミングアウトもすることになるし、
うまく伝わらなかったり、予期せぬ返答で一喜一憂することになるんだろうな。
『普通』の大人になりたくはない、子どもだと思われるのも嫌だ
私はそのままの自分として生きていたい
これが私の考えで人生最大の課題、である
私のようなクィアたちが自分のまま生きていける社会に早くなると良いなと願っている。(選挙に行ったり、可能な限り対話を広げたりもしたい)
堅苦しい決意表明になってしまいました。
理不尽な世の中だけど、生きていくぞう~と思っています。
クィアパワー💪💪💪