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怖くなって、ツイートを消した。

一昨日の3/6(金)の朝、テレビを見ていた僕はふとスマホを手に取り、以下のツイートをした。(そして、2日後の日曜日の夜にこのツイートを消すことになる。)

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1つ先に断っておくと、このツイートに嘘はない。コピーの仕事をしているし、「誰かを不幸せにしてないか」「エシカルへ」って書くからには、ブランドが、そしてそこに関わる人々が誰かを不幸せにしてはいけないし、エシカルでないことをしてはいけない、そう思っている。コピーライターだって、クライアントの態度を信じて、祈って、この言葉を書いたと思う。(というかそうであってほしい。)

でも僕はツイートを消した。タイトルにもあるように怖くなったから。

ツイートした日の午前中くらいは、お互いにフォローしてるコピーライター仲間とか広告会社仲間を中心に、「いいね」が増えていった。(消してしまったから覚えてないけど、彼らからの「RT」はなかったように思う。)

けれど、あるタイミングからネット上でも面識のない、知らない人から「RT」や「いいね」をもらうようになった。そして気付けば、あのツイートは71人RT / 145いいねという数字がついていた。

決してバズったわけじゃない。大した数字ではない。けれど、僕はあのツイートに「RT」や「いいね」がつくことが、たまらなく怖くなってツイートを消した。

初めての感覚だった。

「RT」や「いいね」をされるたびに、多くの人の(あえてこう書くが)「悪意」が自分に流れ込んでくる感じも。個人的なつぶやきが、RTされていくうちに、だんだん自分の手を離れて、目に見えない「みんな」の意見になっていく感じも。

ここでいう「悪意」とは、「無責任な発信」「安全なところからの攻撃」と解釈してくれてもいいと思う。そして、もちろん僕にも「悪意」があった。そして、あのツイートをした時、僕は正義という大義名分に、「ウケるかも」っていう邪な気持ちをちょっと潜ませていたと思う。

油断した。なりたくなかった「正義の執行者」になっていた。メディアが散々報じている中、何も知らない、第三者ですらない(関係者ですらない)自分が、追い討ちをかけるようにこの件を取り上げる必要なんて最初からなかったのに。僕は「ウケるかも」程度の承認欲求から、安易にテキストをつくって、公開してしまった。

そしてその僕の個人的な「悪意」に、述べ200人を超える人の「共感」が集まった。(Twitterの使い方は人ぞれぞれだから、必ずしもそうじゃないかもしれないけど、便宜上そのように書きます。)もはやこれは、僕だけの言葉じゃなくなり、200人ばかりの「民意」になってしまった。(ように感じた。)僕から始まった「悪意」は、どんどん膨らんでいった。(気を悪くした方がいたらごめんなさい。)

もちろんセクハラが許される社会は無くなるべきだと思うし、彼は責任を追求されて然るべきだと思う。ただ「発信できるツール」を手にしているからといって、なんでもかんでも発信していいわけじゃない。(そもそも無理に発信する必要もない。)特定の1人を、「民意」という匿名性を纏ってフルボッコにしていいわけじゃない。「民意」は簡単に人を殺せる。

本来、Twitterは「善意」の側に立って使えば、新しい仲間や価値観、知識と出会うことのできる最高のツールだ。でも、あの瞬間、僕は「正義の執行」という「悪意」の側に立って、誤った使い方をした。

これは、反省文。僕はもうそんな使い方はしない。したくない。もし僕がまたそんな使い方をしてたら指摘してほしい。そして、できればたくさんの人が同じ気持ちになってくれたらいい。

最近読んだ「遅いインターネット」という本の中ではこんな一文がある。
(本当に面白い本だったので、ぜひ読んでみてほしい。)

他人の書いた記事に対して後出しジャンケン的にマウンティングすることがインターネットのインタラクティブ性ではない。そんなことよりも、住んでいる場所や所属している業界の垣根を越えて集まった仲間たちが、ゆるやかにつながりひとつのメディアを運営する。それだけで、いやそのほうが「インターネット的」なのだ。

タイムラインもひとつのメディアだとすれば、僕たちはこのメディアを一生懸命良いものにするために「利用」ではなく「運営」する必要があるんじゃないか。そしてそれができた時SNSは、もしかしたら本当に社会を変えるのかもしれない。

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