個人時代のコミュニティの価値/選択コミュニティの時代の個人の価値

本日は僕が思う【個人とコミュニティの関係性の推移から見るコミュニティデザインの違い】について考えながら今後こんな風な人に価値が現れるだろうなぁというお話をして最後にだからこそ今後コミュニティデザインは教養になるという無理やりな理論をお話させていただきます。

時代はどこまで遡るのかなんてわかりません。しかしマスメディアの影響が強そうなので戦後からでしょうか。幸せの形や幸福な人生とはなんて姿がある程度規定されひとはそれを疑わずに生きてきました。これは悲観的な印象で語られることが多いとおもいますが今と比較することは一個も意味がないと思うのでそれはそれで幸せな時代があった。ただそれだけだと認識していただければと思います。
そこからSNSやYoutubeの影響により、すごい人たちがどこで何をどうしてすごいのかがより見えるようになってきました、そこから少しすごい人にも脚光が浴びせられるようになったと思います。そして声を上げることがうまい人声の大きい人にも光があたるようにいなりました。そして何よりマイナーな人たちにも光が当たるようになりました。

そんな変化の中起きたのは、【個別化/個人への最適化】と【集団形成における集団のルール作りルール遂行】とのミスマッチの露呈だと思っています。LBGTQやジェンダーな問題や各種のハラスメントなどの問題は昔からあったがやっと光を浴びてきた、浴びるようになってきたのだと思います。そうするとその方々の救済のために様々な集団としてのルールの変更が求められることです。

そこで起きる問題はそういった事柄に対してルールを変えていくことの難しさだと思っています。
ルールの実行変更にもコストはかかりそういった分野への対応には莫大なお金がかかります。予算が決まっている中そういった対応のためだけに自由に変更していくことは、その物の良し悪し意外の問題が絡んでくるのです。
大多数の安全の確保その物にもすごくコストがかかっている中、それ以外の部分にもコストを割くのであればやはり国がもっともっと豊かになり予算その物が拡大しないといけません。拡大しないなら増税やほかの分野の予算カットですね。
というように、個別の問題(先にあげた例は主語が大きすぎますがそれに限らない単純に個人の問題という意味で)に大きな枠で対応する事には限界があるのです。

そんな中、有意義だと考えるのが、自身が問題解決できるようなコミュニティに所属することがあると思います。

たとえば僕が以前デフスポーツ(聴覚障がいを抱える方のスポーツ)に接した際にかんじたこととしては手話で話す方たちの中では僕はコミュニケーションが取れず困り果てましたが彼らは困っていなかったのです。

というように、法律などといった大きな枠でとらえ解決するのではなくコミュニティそのものの規模を小さくしそこで共通の価値観をもって暮らして行くことが救済にもつながるのではないかということです。

つまり、コミュニテイは選択して所属して生きていく事がもっともっと当たり前になると思うのです。(というかもはやそうならないと厳しい時代に入ってきている。)参加させられたコミュニティ(家庭や、国、学校)などとは違う場所に意志をもって所属することがより当たり前になり、その価値が上がり逆にそのコミュニティへ貢献することが求められるようになってくると思うのです。

そうなったとき、コミュニティでどんな動きが貢献することになるのか、どんな事が求められるのかを知っていること知らないことはQOLそのものにつながる大事な部分となり、活躍していくともいます。つまり教養として身に着けておくべきものになるのではないか。そんな風に思っています。(あくまで個人の見解)

ではでは。

@k7123_VG

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