When we are born we cry that we are come To this great stage of fools.
題名は全く関係ないとある有名なお話のセリフ。
今回はとある男のお話だ。
異世界転生もしないし面白いアクシデントもないとある男のお話。
時は1990年冬のこと新年の喧騒もおわりテレビは平常モードに移り皆一様にもう1年の1/12も終わっちゃうねなんて言っていたころ、男は産み落とされた。
母は幼いころに痛めた股関節の影響から帝王切開で産んだという。であらば産み落としたというのはおかしいか。
「おぎゃーおぎゃー」そんな風に泣いたのであろう。ただただかわいかったのを覚えているとよく聞かされた。
男の小さい頃の趣味といえばLEGOとプラレールだ。
その2つにしか興味がなかったはずだ。
(一瞬カクレンジャーという忍者の戦隊ものに浮気はしたがそれは触れないでおく)
LEGOではひたすらに乗り物を作り遊んでいた。
飛ぶはずもなく走るはずもないが子ども特有の例のあれ「うぃーん」の魔法で走らせとばいていた。プラレールは投げるものだと思っていたはずだ。
幼稚園に入ると鮮明に覚えている記憶がある。
神社?お寺?の幼稚園で広い園庭にウサギやなんだか動物や今思えば危険な遊具がいっぱいあった幼稚園だ。
今回の記憶の主人公はこいつだ
そうお弁当袋だ。
しかもとりわけここ
男の通う幼稚園ではあさお弁当箱を冷蔵庫に預けていた。そうすると袋が空になるため、男はもちろん振り回して遊んでいた。
なぜかその日は袋の方を持ち紐をぶんぶん振り回していたのだった。
すると前に四つん這いの高梨君がいるではないか。
男は問答無用に振り回すそれはも幼稚園について遊んでいい時間のテンションで振り回す。
するとどうだ。
もう聡明な読者様達には察しがついていると思う。
そう。高梨君の目にヒットしたのである。
「おいおいどうやって上から目に当たるんだよ」
聡明な読者様達でも迷うだろう。
こうだ。
なんとファーサイドから回り込んだひもが支点を得ることで巻き込み加速しながら高梨君の目玉に新しい眼球よとBT子さんのセリフが頭に浮かぶかのごとく様相で当たったのだ。
するとどうだろう。
高梨君は泣いた。
男も泣いた。
何が起こったかわからない2人と目撃者のいない事件
高梨君には大変悪いことをしたと男は言っている。
この事件の真相はまだ闇に包まれたままだ。
男のみが知るそして男がこの世に生を受け始めて意思を持って悪いことをした瞬間だ。
あやまれなかったという後悔は今でも続いている。
そんな男は年小から体操クラブに入り
スキャモンの発育発達曲線でいうところの神経系の伸びうる時期にふさわしい競技生活を送っていた。
そして劇の発表では八岐大蛇を演じ酔っぱらう演技がうまかったとのちの世まで語られているらしい。
世は移り大小学生時代
ここがふしぎだ。
男は1-4年までの記憶がほぼないらしい。
日本代表のマークの入ったナップザックを作ったこと。おさがりの裁縫箱が恥ずかしかったことはうっすら覚えている。
5年からはHA★TSU★KO★Iの時期だ。もうわかりやすいくらいに恋している少年であったのを男は覚えている。
まぁこのはなしは置いておこう。
3年から始めたサッカーではなかなかに優秀だったみたいだがしょせん地区どまり。推薦などなくクラブユースに入るでもなく中学へ進学した。
中学でもサッカーを続け、副部長などをやったらしい。
間違えて女子更衣室に入ったり間違えて女子部の部室に入ったりと自由に遊んでいた←
男の中学は入れ替わりの先輩の代までドの付くヤンキーパイセンがいた学校で授業中に窓から机が投げられたりバイクが走っていたりしたらしい。
らしいなので正確には知らないが、男の代でも体育館に放火するやつがいたのでまぁそれなりだと思う。
そんな男も恋をした
二回目のKO★I
ほほが赤くなりやすいショートカットの目がくりっとしたバスケ部の女の子だ。
小学校時代に100mで全国大会に出ていたK君によくからかわれて「おいおいお前Yちゃんことすきだろー」なんて言われて「ちちちっちげーし」んて青春していた。
当時まだ個人が携帯を持つなんてことはありえず、ボンボンの家かよっぽど過保護な家庭だけ持っていた(うそです半分ぐらい持ってたけどうらやましかっただけです)
携帯のない僕は携帯を持つYちゃんと携帯⇔PCでやり取りしていた。親に隠れアカウントを作りYahooかなんかのアドレスをゲットし密に連絡を取る行為は今思ってもスリリングで、本当に青春だった思う。振られたけど。
そんな中学時代が終わると
KoKoSei!
高校は誰に聞いても勉強しないでも絶対入れる受かると太鼓判を押された県内でも真ん中かその少し上くらいの公立に落ちてまともに考えてもなかったおバカな私立学校へ行った。
英語の初回の授業はローマ字を全部書くことからだった。
その高校で全く授業も聞かず勉強もせず上位10番以内をキープした。
サッカーは続けたかったのだがチャラついた感じが嫌だったのと初日に顧問を殴ってしまったために入れずハンドボールを始めた。のちに殴った教員とはまた殴り合うがそれはまた次のお話。
ハンドボール部は創部2年目で広大な土地を耕してグランドを作ることから始まった。
県内でも数回勝てば全国大会だったのだが神奈川県には強い高校があり毎回ベスト8どまりだった。
ハンドボールをしていると男は腰椎分離症というけがをした。
これは男にとって1つ目の夢のきっかけになるけがであった。
このケガ、今思えば治療でどうこうできるものではないのだが当時は
「このくそやぶ医者」「ふざけ治療院」「カス薬剤師」
と言っていたが全く当時の先生方に非はない
(男は今でも先生がたに謝りたいと思っている)
しかし、その怒りはこのけがは自分で治すという方向のエネルギーに転換された。
図書館で読めもしない医学書から簡単な本まで全部目を通しているとふと本の扉に「これからのスポーツ界にはトレーナーが必要だ」的なことが書いてあったのだ。
ほうほうなんだトレーナーって。もちろんそうなる。
トレーナーは医者でもなく治療家でもなく選手の一番近いところでリハビリやサポートを行う仕事的に書かれていて「うわぁ俺こんな人にお世話になりてぇ」と思った次の瞬間、「いやもうこれ以上俺みたいな人を増やしちゃいかん!俺がトレーナーになる!絶対なってやる!」と男は決心したのである。
大学はもちろんアスレティックトレーナー認定校に行くと決め高校の指定校一覧と認定校一覧を見比べ2つ見つけて先生に受験はしたくないけどトレーナーになりたいからどっちかに行くといったのを覚えている。
そこからは部活も無事引退しバイトしたり遊んだりのフリーな時間をすごした。
大学からのお話はまた書こうと思う。
きょうはここまで。
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