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最近の2回のWeeklyOchiaiから見るコミュニティの価値の1つ

前々回学びのアップデートの時に、出た話題だ

【よい学びを行うためにはコユニティが必要】

聞いた時も何となく「そうだよなー」と感じていた。それをはっきりと感じたのは翌週の回であった。

その回とは、<働く女性をアップデートせよ>の回です。

女性が軸にある討論でまともなものを見てきたことがなかったため(というかそのため避けてきた)少し面白くない回かもしれないなというくらいに見始めた。(落合さんや佐々木さんの力で新しい学びのあるものになると信じて)本当に面白かった。

なぜ面白かったかは前のNote

を見てもらいたい。

この時に感じた「よさ」は間違いなく演者の皆様の物もあるのは大前提だが、何よりあの場所を作ったNPコミュニティそのものがあると思った。

共に学ぶために必要なものは

前提条件
知識レベル
言語

など様々な条件がそろったと気でなければならないのだと感じた。

特に、【答えに多様性があるべき様なものを学ぶとき】は難しい。

意見を拾いそれをもとに話が広がるときに、否定から入るような入り方をすれば当然いい物にはならない。そんな、いい場所になるようにコミュニティという1つのくくりが役に立つのだ。

コミュニティで話し合う場合はほとんどにおいてその色に引っ張られた答えになるのだと思う。別に偏見なく書くがフェミニスト団体と居酒屋のおっさんたちと同じ議題でも何となく出るであろう答えが決まっているようにだ。

そんな風に何かを話し合い学び高めあうときそのコミュニティの質がそのまま学びの質になる。

今回のWeeklyochiaiもその典型的な例で、多くの女性が様々に意見をする中で誰も「それは違う」「間違ってる」とは言わない。あの場所の素晴らしさみたいなものを感じた。コミュニティの質により担保された議論の質であった。NPという1つのハードルの素晴らしさともいえるものだった。


そこで考える。

いいコミュニティにもそういったものが言えるのではないだろうか。

条件があるとすればなんだろうか。

〇知識が同等あるいは知識の共有が行われている
〇他者の意見に対する否定は行わない
 もしくは否定して良いという場がある

の2つは大きいのだと思った。

居場所→熱量の求められる場所

に移り行く中で知識量の差があっては参加できない。そのためにも必要である。また、共通言語として言葉が通じる状態でない場合議論はおきく時間がかかってしまう。「○○とは」という補足を永遠に行っているコミュニティには進んだ議論はできないからだ。

そして否定と攻撃的反論とは違う。この否定はあくまで意見の差があなたと私の間にあるよ。ということだ。それに対し攻撃的反論には愛がない。



そんな前提条件をそろえられる魅力がコミュニティにあるということを再認識した。

そしてまた、居場所とは何か、まで悩み深くなる課題だとも感じた。


まだまだこれはまとめて追記していきます。

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goto(ごとー)
いくつかのコミュニティでコミュニティデザインの相談を受け持つ。
箕輪編集室コミュニティデザインチームリーダー

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