黒澤明監督「生きる」を観たら、私自身の生き方を問い直すことになってしまった。
食らいついて観ていた。理由は二つある。
ひとつは、わたしは市役所職員であり、市民を蔑ろにすることが許せないからだ。
作中に出てくる市役所職員は、ただ一人の男性を除いて、みんなムカつく野郎だった。目上にはおべんちゃらを使い、記者を誤魔化し、市民対応もはぐらかして先延ばしたらい回し、亡くなった主人公の意思の強さに共感して気持ちを改めたかと思いきやいつもどおりたらい回し無責任な市民対応。同業者としてムカつかないわけないだろう?
もうひとつの理由は、私は難病で平均寿命まであと13年だから、自分と主人公を重ねてしまったからだ。私のほうは随分余裕はあるが、明日のことだってわからないくらいだし、なんとも言えない。
改めて生きるとはどういうことか、考えさせられた。
その時に浮かんだのが次の詩だ。
私の人生は10歳以降はボーナスステージ。
何を大切に守っているんだ?
もっと派手に生きたらいい。
一回しかないんだぞ?
延長までしてもらってるんだぞ?
やっていいんだ。
なんのために生まれてきたんだ?
なんのために私だけ生きながらえたんだ?
答えは見つからなくてもいい。
だが、探すんだ。
求めるんだ。
ゆっくり休んでいる暇なんてないはずだ。
立ち上がれ。
なにか書け。手を動かすんだ。
なにか聴け。真剣にだ。
なにか観ろ。見逃すなよ。
いのち短し 恋せよ乙女ということだ。
私はこの映画は傑作だと知っていた。人は残りの寿命が僅かだと悟ったときに、いや、そうでなくても、やろうと思えば何でもできる、それが人生だ。それが生きることだ。そういうことを言っている映画だと知っていた。だからなのか、鑑賞後も当然のように傑作として受け入れたし、事実そうだと思った。
しかし、田所先生から配られた公開後すぐの映画評を読むと、やれ録音がひどいだとか、志村喬の演技が重すぎるだとか、一般の人に観てもらうような娯楽映画じゃないだとか、意外なくらい酷評されていた。先生から配られた映画評はこれだけではない。他のものは正反対で、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞したやら、人生のベストやら、絶賛の嵐だった。ここで注目すべきは、酷評と絶賛のそれぞれの映画評がA4のプリントのちょうど真ん中を境に、左が酷評、右が絶賛と配置されていたことだ。紙面の都合か?とも思ったが、先生のことだから理由があってのことだろう。まるであなたはどっちですか?と聞かれているようだ。
私は上にも書いたようにもちろん絶賛なのだが、酷評を読むとウンウン確かに…と思ってしまう。実際録音の悪さと志村喬の演技の重たさには私もまいった。酷評にはセットの反響が聞こえてどうもねえ、とか書かれていたが、私の場合は台詞が聞き取りにくかった。とくに通夜式の台詞は重要だと思うのだが、あのおじいさんの声はほとんど聞き取れなかった。何か重要なことを聞き逃しているのではないかと思って、顔がほんのりあたたかくなるくらいテレビに耳を近づけたほどだ。
志村喬の演技の重たさは、先がない絶望感を表現しているのだと思う。こちらまで胃がんになったような気がした。胃がん患者の気持ちは想像してみようともできるものではない。そもそも死に直面することなどそうそうないのだから、なおのこと難しい。だから結局はだれも演技が重たいだのなんだのとは言えるはずないのだ。
だけど映画だ。私は映画に憧れを持っている。憧れの主人公や登場人物を真似したいのだ。しかし真似するには重すぎた。と書いていると、私は酷評したいのか?絶賛したいのか?わからなくなってしまった。
酷評と絶賛が入り交じるほど傑作だ、などと言って逃げようとは思わない。いつの間にか自分もあの通夜式の公務員たちみたいに、その時の気分に流されて、己の信念を、そんな大げさなものじゃないとしたら、自分の考えを、見失いつつある。そもそも私の考えとは?業務で真剣に市民のことを考えているか?もちろん考えている。それは職員だから考えているのではないか?いや違う。でも?本当か?自らの、心からの欲求にしたがって考えているか?どうだ?鋭いナイフの先端を首元に突きつけられているようだ。
私はわたし自身を問い直さなければならなくなってしまった。生きるを観たことで、映画評を読んだことで、私は公務員としての生き方を、それどころか、私自身が考えて生きているのか、そもそも生きているのか?私にとって生きるとは?
手放しで傑作だと絶賛するにはあまりにも危険な映画だ。