「支配」という言葉の憂鬱
ここ数日のロシアーウクライナ情勢の変化で世界が大変なことになっている。平和だといわれている日本だって、あちこちの経済政策の影響でまた生活に無理を強いられるに違いないと思うと、憂鬱でしかない。加えてコロナ騒動…
昔まだ会社にいて大変な状況にあったとき、上司は部下を励ますべく言ったことを思い出す、「明けない夜はない」と。
だけどあれ以来、完全に夜が明けたと認識できる日なんて、考えてみればなかったような気もする。いつもどこかで誰かが持論を振りかざしては、物事をうまく収めようなんて思ってもみない暴挙に出る。一時期ビジネスに「Win-Win」なんて言葉が流行ったが、そんなの「自分が勝つため」の秘策にしか過ぎないと今では思う。
あのひどい状況と、ウクライナをめぐる状況なんて何が違うのだろうといつも考える。ミクロ的にみればロシアもウクライナも、平凡に平和に暮らしたいと思っている人ばかりのはずだ。だけど全員でない一部の人の暴挙だけで、こんな大きな争いになる。
メディアでは「プーチン」「プーチン」と怒りの矛先を向けているけど、たかが一人の意思だけでこんな大きな問題が起こるはずない。「平凡に暮らしたい」なんて思っていない、だけど一人ではない複数の人間がどこかに存在し、それによってこの争いは起きた。そして「明けない夜」を長引かせている…
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この前「終わったばかり」の北京オリンピック。フィギュアスケート女子代表・ワリエワのドーピング疑惑は大きな物議を醸し、あちこちのメディアが彼女のコーチを「非情だ」と非難するばかりだったが、どちらかというとロシアという国事態への避難を強くするべきじゃないだろうか。そんな気がする。
ロシアは組織的ドーピング問題への制裁として国としてのオリンピック出場権を剥奪され、結果的にROC(ロシア・オリンピック委員会)の名によってアスリートたちはオリンピックに出場することを許されている。しかしそれでもあふれ出るこの問題は何なのだろうか?相変わらず彼らには「勝つこと」「メダルをとること」が第一目的になっているのではないか。
旧ソ連のアスリートたちは、オリンピックで金メダルを取ったとしても表彰台でニコリともしなかったという。社会主義体制が崩壊しそういった傾向も無くなったと思われたが、なんだ、まだこんなところにいたよなという気がしている。相変わらず彼らは勝利至上主義にあるのではないか。
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ウクライナ侵攻とオリンピックが重なり、あの北の国は大きく変わったようで何も変わってないんじゃないか?という気もした。ウクライナのNATO加入に対するロシアからの妨害とニュースでは言うけど、結果的に支配したいのだろう。結果的には、あの「恐怖政治」でほかの国を支配したいんじゃないだろうか。
果たしてそこに何の得があるというのだろうか。いや、もちろん一部の人間には多くの富が転がり込んでくるのだろう。でもそれが本当に人生を幸せにしてくれるというのか?その富のために犠牲になる人もたくさんいる。「支配者」は本当に彼らに感謝するのだろうか?そして結果的に得られた富で本当に幸せな気持ちになれると思っているのだろうか?
「支配」という言葉を聞くと、僕はいつもこの曲を思い出す。平穏でクールな曲だけど、その詞をかみしめるたびにいろんなことを思う。今自分が憂鬱な気持ちにあるのは、誰かが僕を支配しようとしているからじゃないか、なんて。
「Say that you’ll never, never, never, never need it
One headline – why believe it?
Everybody wants to rule the world
そんなものはいらないと言ってくれ
一行の見出しだけで なぜそれを信じる?
誰もが世界を支配しようとしている」
(抜粋:https://blog.mryogaku.com/everybody-wants-to-rule-the-world/)