今も日本人に問いかけている「三・一独立宣言」
105年前の今日(1919年3月1日)は、大日本帝国からの独立を宣言した「三・一独立運動」が韓国・ソウルで始まった日である。その約ひと月前には、日本に留学していた朝鮮人留学生達が神田のYMCA会館(現・韓国YMCA)で「独立宣言書」(二・八宣言)を採択している。
東学農民戦争→三・一独立運動→光州5・18抗争──韓国民衆の長きにわたるたたかいの途上に、今の韓国がある。
以下は、徐京植著『詩の力──「東アジア」近代史の中で』から抜粋。
【今も日本人に問いかけている「三・一独立宣言」】
福澤諭吉が書いたとされる『脱亜論』は当時の『時事新報』という新聞(一八八五年三月一六日付)に掲載された。
これが当時の日本がアジア諸国を見る基本的な視線であった。朝鮮民族の側の抵抗は、この「脱亜論」的世界観への抵抗であるともいえる。
一九一九年、日本が朝鮮を併合した九年後に、朝鮮で三・一独立運動が起きた。この宣言は武装闘争によって日本の支配を打ち破り独立を勝ちとろうという呼びかけではなく、日本人に対して平和のための連帯を呼びかけたものだ。以下は独立宣言文の一部である。
自己を策励するに急なる吾人は、他を怨むいとまはない。現在の問題に多忙なる吾人は、過去をとがめる暇がない。今日われわれの専念するところは、ただ自己の建設のみである。けっして他を破壊することではない。(中略)勇気、明断、果敢、もって旧来のあやまりを正し、真正なる理解と同情とにもとづく、友好の新局面を打開することが、彼我のあいだに禍を遠ざけ、祝福をもたらす捷径であることを明察すべきである。また、含憤蓄怨(がんぷんちくえん)二千万人民を、威力をもって拘束することは、東洋永遠の平和を保証する所以ではない。のみならず、これによって東洋安危の主軸たる四億万中国人民の、日本にたいする危懼と猜疑とを、ますます濃厚ならしめ、その結果として、東洋全局の共倒と同亡の非運をまねくことは明白である。今日吾人の朝鮮独立は、朝鮮人をして正当なる生活の繁栄の追求をなさしむると同時に、日本をして、その邪道から脱出せしめ、東洋の支持者たる重責を全(まっと)うせしめ、中国が夢寐(むび)にもわすれえない不安、恐怖からこれを脱出せしめ、東洋平和の、またその重要なる一部をなす世界の平和、人類の幸福に必要なる段階たらしめんとするものである。区々たる感情の問題ではない。
(山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』〈岩波新書、一九七一年〉より)
つまり朝鮮の独立は日本自身が邪(よこしま)な道から抜け出すために必要なのだ、そうでなければ共倒れのほかないと言っているのである。日本はもちろんこの独立運動に対しても過酷な弾圧をもって臨み、朝鮮人約七五〇〇名が死亡、四万六〇〇〇名が検挙されたといわれる。
この時朝鮮半島内で平和的な独立運動を続けられなくなった人たちが、一つは中国で大韓民国臨時政府をつくって抗日独立闘争を続けた。一九三二年に東京桜田門で天皇に爆弾を投げた李奉昌(イボンチャン)や中国上海の虹口公園で日本軍と政府の要人に爆弾を投じた尹奉吉(ユンボンギル)もその一員だった。この大韓民国臨時政府が現在の韓国の国家的正統性の源流とされている。
また、三・一運動のあと、中国東北地方(満州)で共産主義者が武装闘争を開始した。そのうち金日成(キムイルソン)に率いられた部隊が、現在の朝鮮民主主義人民共和国建国の中心となった。つまり現在朝鮮半島は南北に分断され、二つの政府が存在するが、そのどちらも抗日独立運動の歴史的流れを汲んでいるのである。
これが過ぎ去らない過去である。昔こんなことがあったとすませることはできない。なぜなら、その歴史が現在まで継続しているし、日本の政治指導者は、その過去を清算するのではなく、そこへ戻ろうと主張しているのだから。
侵略や植民地支配に抵抗する民衆を、武力によって鎮圧しても、決して平和を招くことにはならないということを歴史は教えている。二一世紀のいまになって、一〇〇年近く前の三・一運動独立宣言をもういちど振り返らなければならないことは一つの悲劇だ。しかし、超えられなかった歴史的課題を認識し、東アジアに平和を構築するためにぜひ必要なことなのである。
【関連書籍】
東学農民戦争と日本──もう一つの日清戦争
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