日露戦争の開戦日を改ざん・隠ぺいした明治政府

「2月8日の仁川沖海戦」ではなく、「2月6日のロシア艦船の拿捕・大韓帝国の電信局占拠」が日露戦争の始まり

121年前の今日(1904年2月6日)は、日露戦争が始まった日である。
一般的には、《日露両国間の兵力による衝突は、二月八日午後四時四〇分に、韓国の仁川港沖において、ロシアの小型砲艦コレーツと日本の連合艦隊の第二艦隊第四戦隊(瓜生艦隊)との間に始まった。その数時間後には、日本の連合艦隊に守られた駆逐艦隊が、旅順港外部碇泊地のロシア艦隊を奇襲攻撃した。
 開戦の意思の通告(宣戦布告)は、ロシアが二月九日付宣戦の詔書を二月一〇日の『官報』一面トップで大きく発表し、日本も宣戦の詔勅を一〇日夜の『官報』号外で配布した。
 以上の事実によって、日露戦争の開始は二月八日とされてきた。》(金文子著『日露戦争と大韓帝国──日露開戦の「定説」をくつがえす』321頁から引用)

しかし、実際は1904年2月6日未明、対馬に停泊していた連合艦隊第三艦隊第七戦隊は、韓国の鎮海湾と電信局占領、ロシア船舶の捕獲のために出港し、同戦隊所属の済遠は同日午前九時に釜山北方の韓国領海内でロシア商船エカテリノスラフ号を、平遠は釜山港内でムクデン号を拿捕し、いずれも対馬の竹敷へ曳航した。ロシア領事からの抗議を受けた釜山領事・幣原喜重郎は、領事館警察隊を使ってロシア領事の電報発信を阻止し、さらに韓国の電信線を切断させたのである。
つまり、仁川港沖の日露の海軍同士の衝突の2日前に、日本海軍はロシアの艦船を拿捕し、それをロシア本国に知られないために、韓国の電信局を占拠して電信線を切断していた。
日本海軍お得意の「奇襲攻撃」と大韓帝国の主権を侵害する国際法違反である。
開戦直前(1904年1月31日)、山本権兵衛・海軍大臣は連合艦隊司令長官・司令官に対し、以下のような最後の訓示を送っている。
「須(すべか)らく我が軍隊の行動は、恒(つね)に人道を逸するが如きことなく、終始光輝ある文明の代表者として、恥づる所なきを期せられむこと、本大臣の切に望所(のぞむところ)なり」(海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』一部一巻五七頁、アジ歴C05110031200)

上の訓示と同時に、山本海軍大臣は、仁川港でロシア艦の監視を続けていた千代田艦長村上大佐に次のような訓示を送っている。

「今後或(ある)いは電信の不通を見るが如きことあるべしと雖(いえど)も、貴官は我が連合艦隊の其の方面に出現する迄、其の地に止まることに心得、臨機の処置は貴官の専断に任ず、又韓国沿岸に於ては、他の列強との関係を惹起せざる限りは、国際公法上の例規を重視するを要せず」(前掲『極秘海戦史』第一部一巻五八頁)

 山本海軍大臣は、千代田は連合艦隊が仁川に現れるまで、その地に止まるものと心得よ。また韓国沿岸においては、他の列強との関係で問題さえ生じなければ、国際法を気にしなくてもよい、と訓令したのである。
〈※凡例:引用史料の内、国立公文書館アジア歴史資料センターよりインターネットで公開されているものについては、その一二桁のレファレンスコードを「アジ歴○ ×××××××××××」として付記した。○は所蔵館を示すアルファベットであり、Aは国立公文書館、Bは外交史料館、Cは防衛研究所図書館を示す。〉

「戦史」を改ざん・隠ぺいする

日露戦争終結後、戦史を編纂するにあたっての当局の編集方針はいかなるものであったのだろうか。
以下、中塚明著『日本人の明治観をただす』(192-193頁)から引用する。

《福島県立図書館の佐藤文庫には、「日露戦史編纂綱領」という文書もあります。
 日露戦史の編纂にあたっては日清戦争のときとは違って、参謀本部はあらかじめ編纂方針を確立して編纂に当たりました。その文書です。
 一部をご紹介しましょう。
 日露戦史編纂の基本方針は「編纂を二期に分かち、第一期では正確に事実を書き史稿を作る」。
第二期では「その全部にわたり分合増刪(ぞうさん=添削して)、かつ機密事項を削除」して、「本然の戦史を修訂し、これを公刊するものとす」というのが日露戦史編纂の大原則です。
 そして興味あるのが添削するときの基準です。つまり「書いてはならないこと、削除すべきことなどが箇条書きにして一五カ条が書かれている「日露戦史史稿審査ニ関スル注意」という文書が付属しています。
 その一一条に「国際法違反又は外交に影響すべき恐ある記事は記述すべからず。」、理由「俘虜土人の虐待、もしくは中立侵害と誤られ得べきもの、又は当局の否認せる馬賊使用に関するなどの記事のごとき、往々物議をかもしやすくひいて累を国交に及ぼし、あるいは我が軍の価値を減少する恐れあるが故なり」とあります。
 日露戦争をへて日本では公刊される戦史には、このように機密事項を削除、書かないことが原則になったのです。おおやけに市販されて誰でも読むことができる戦史には、ホントのことは書かない、そういうことが「神」である天皇が率ひきいる日本政府・軍隊の常態になったのです。
 日本という国は、天皇の「名」でこの国がおこなった戦争の歴史には、本当のことは書かない、そんなしきたりを確立し、戦史を偽造することが当たり前になりました。そのやり方に馴れたのです。》

まとめ

まとめとして、前掲『日露戦争と大韓帝国』から引用する(同書320-327頁)。

《さてここで、日露戦争はいつ始まったか、という問題を考えておきたい。
 元来、交戦状態とは、開戦の意思を相手に通告した時、または実際の戦闘行為がそれに先行した場合は、その戦闘行為があった時から成立すると見なされている。
 日露両国間の兵力による衝突は、二月八日午後四時四〇分に、韓国の仁川港沖において、ロシアの小型砲艦コレーツと日本の連合艦隊の第二艦隊第四戦隊(瓜生艦隊)との間に始まった。その数時間後には、日本の連合艦隊に守られた駆逐艦隊が、旅順港外部碇泊地のロシア艦隊を奇襲攻撃した。
 開戦の意思の通告(宣戦布告)は、ロシアが二月九日付宣戦の詔書を二月一〇日の『官報』一面トップで大きく発表し、日本も宣戦の詔勅を一〇日夜の『官報』号外で配布した。
 以上の事実によって、日露戦争の開始は二月八日とされてきた。
 しかし日本政府が、戦争の開始を二月六日とすると閣議決定していたことは案外知られていない。そこでまず、どのような手順で、日露戦争が二月六日から開始されたと閣議決定されるに至ったかを紹介しておこう。

 山本海軍大臣は、一九〇四年二月一八日に外務大臣小村寿太郎あてに戦時平時区分決定照会ノ件(官房機密第四二五号)を送った。それには次のように書かれていた。

戦時平時区分の件に付、別紙之通、貴大臣連署を以て閣議に提出致度候條、異存無之候はば、捺印の上内閣へ送付相成度、此段及照会候也

 この照会に別紙として添えられた閣議提出案戦時平時区分の件(官房機密第四二五号ノ二)は、次の通りである。

 今回露国と戦端を開きたるに付ては、我が国が戦時の状態に移りたる時機を明にするの必要をみとむるを以て、本月六日即ち政府が日露両国の外交断絶したるを以て我国は自由行動を執るべき旨を宣告したる日より戦時と定められ度、右は事重大なるを以て茲に閣議を請ふ
   明治三十七年二月十八日
           陸軍大臣   寺内 正毅
           外務大臣男爵 小村寿太郎
           海軍大臣男爵 山本権兵衛

 内閣総理大臣伯爵 桂 太郎 殿

 つまり山本海軍大臣が、二月一八日付けで、陸軍大臣、外務大臣、海軍大臣の三者連名で、内閣総理大臣あてに提出する閣議案戦時平時区分の件を作成し、二人に同意を求めた。その内容は、戦時の開始は二月六日としたい、これは大変重要なことなので閣議での決定を要請したい、異存がなければ捺印の上、内閣へ送付してもらいたいというものであった。
 次に一週間後の二月二五日付けで、山本海軍大臣は外務大臣小村寿太郎あてに戦時平時区分内閣より通達の件(官房機密四二五号ノ四)を送った。その文面は左記のとおりである。

貴大臣連署を以て閣議に提出致候戦時平時区分の件に付、別紙写の通内閣より通達相成候條、此段及通牒候也

別紙写とは、この文書に添付された内閣通達写(内閣批第五号)のことで、左記のとおりである。

明治三十七年二月十八日官房機密第四二五号ノ二
戦時平時区分の件、請議ノ通
明治三十七年二月二十四日
内閣総理大臣伯爵 桂 太郎
(『日本外交文書』三七巻三八巻別冊一、四〇~四一頁)

 要するに、実際に閣議で審議されたかどうかは不明であるが、内閣総理大臣・桂太郎は、一九〇四年二月二四日に、二月一八日付けで陸軍大臣・寺内正毅、外務大臣・小村寿太郎、海軍大臣・山本権兵衛の三者連名で提出された閣議案戦時平時区分の件について、請議ノ通と了承し、日露戦争の開始を一九〇四年二月六日とすることを認定した。
 この閣議案を作成して、外務大臣・小村寿太郎に同意を求めたのも、閣議で承認されたという内閣通達の写しを小村外務大臣へ送ってきたのも山本海軍大臣であった。
 山本が、戦争の開始を二月六日にすべきと考えた理由は、次の二点にある。

①二月六日午前一〇時(実際には九時)より、ロシア義勇艦隊所属の船舶に対し、交戦権の一手段である拿捕を行ったこと。

②二月八日午前において、小村外務大臣が駐日英国公使に対し、日露両国間の係争事件の平和的解決に関するランスダウン英国外相の提言について、時局はすでに戦争状態の域に到達していることを断言して拒否したこと。

 山本海軍大臣は、①、②の事実を合理化するために、米西戦争の際に米国が最後通牒を発した日に遡って戦時の始期を定めた事例に鑑み、二月六日、日本がロシアに対し国交断絶と自由行動をとるべき旨を宣言した日を以て戦時の始期とすることを妥当としたのである。
 これは、日本の軍事行動の開始が欧米列強から国際法違反と非難されないように、山本海軍大臣が苦心のすえ考えついた方便であった。しかし厳密に言えば、二月六日に日本がロシアに国交断絶を通告したのは、現地時間で午後四時、日本時間で言うと午後九時であり、ロシア船の拿捕は同日の午前九時から行っているのであるから、国際法違反は免れない。
 ところが後世の日本の歴史家たちは、二月六日におけるロシア船の拿捕問題など全く問題にせず、また戦争の最高指導者だった山本海軍大臣のこのような苦心にも考慮を払うことなく、日露戦争の開始を一九〇四年二月八日深夜の連合艦隊による旅順艦隊奇襲攻撃としてきたのである。
 なお、戦争の開始日を確定する必要性は、軍人恩給法上の戦時加算(二箇年)を適用するためにも、明確にしなければならない問題であった。
 海軍省においては、明治三七年四月一九日付けで本年二月六日以後に於て最終に帝国港湾を出発したる日、又二月六日以前より清国北部及韓国に在りたる艦船及海軍軍人は二月六日を以て明治三十七年戦役従軍年の始期とし軍人恩給法第二十一条第一号に依り二箇年を加算すべきものとし可然哉という起案が作成され、四月二〇日付けで海軍大臣山本権兵衛によって決裁されている。
 当時の日本政府の認識から見ても、日本の法制上の規定から見ても、二月六日から戦時に入っていたとしなければならない。
 さらに重要なことは、本章で明らかにしたように、日露戦争における日本軍の最初の武力行使が、二月六日未明より開始された第三艦隊による韓国の鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠であったという事実である。欧米列強からの国際法違反の追及には極めて敏感な山本も、韓国に対しては、国際法を遵守する考えは毛頭なかった。但し、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされたのである。

 一九〇四年二月六日午前九時より、連合艦隊(第一、第二艦隊)は佐世保を出港し、旅順と仁川をめざした。これに先立つ同日未明、対馬の尾崎港および竹敷港にあった第三艦隊第七戦隊は、韓国の鎮海湾と電信局占領、ロシア船舶の捕獲のために出港した。
 同戦隊所属の済遠は同日午前九時に釜山北方の韓国領海内でロシア商船エカテリノスラフ号を、平遠は釜山港内でムクデン号を拿捕し、いずれも竹敷へ曳航した。
 ロシア領事からの抗議を受けた釜山領事・幣原喜重郎は、領事館警察隊を使ってロシア領事の電報発信を阻止し、さらに韓国の電信線を切断させた。
 また愛宕艦の陸戦隊は、同日午後四時五〇分に馬山の韓国電信局占領を完了した。翌七日朝、陸軍の釜山守備隊は釜山の韓国電信局を占領した。
 二月七日午後九時、山本海軍大臣は、愛宕艦長に、翌八日午前八時をもって電信局占領を解除せよと電命した。しかしこの命令は、陸軍兵力の馬山及び釜山上陸の準備を整えていた陸軍と、これに協力していた釜山・馬山の両領事によって拒否され、両電信局の占領は陸軍の釜山守備隊の手によって継続された。
 海軍の旅順、仁川奇襲作戦成功の結果、陸軍の上陸地点は仁川以北に変更され、二月一〇日に馬山及び釜山の陸軍先発徴発隊に引き揚げ命令が出されたため、釜山電信局は二月一〇日深夜、馬山電信局は翌一一日午前八時に占領が解除された。
 海軍の公式戦史である、軍令部編『明治三十七八年海戦史』全四巻(一九〇九年)では、一九〇四年二月六日の韓国鎮海湾及び電信局占領の事実は完全に隠蔽された。
 同じく軍令部が編纂し、近年に至るまで秘匿されてきた『極秘明治三十七八年海戦史』全一五〇巻には、鎮海湾占領の事実は記述されているが、韓国電信局占領については、第三艦隊第七戦隊司令官・細谷資氏海軍少将の独断であるかのように叙述し、それを知った山本海軍大臣が、直ちに之を解除せよと命じたと、事実を歪曲して記述している。
 韓国電信局占領は、海軍大臣・山本権兵衛が国際法違反を認識しつつも直接命じた軍事作戦であったことは、本章において詳述した。

 日露戦争は、一九〇四年二月六日、韓国の鎮海湾と馬山電信局占領、韓国領海におけるロシア船舶の捕獲をもって開始された。
 これより先、大韓帝国皇帝高宗は日本の対露密約締結の圧力を退け、ロシア公使とフランス代理公使の協力を得て、密かに使者を中国山東半島北岸の芝罘に送り、一九〇四年一月二一日に、芝罘の電信局から世界に向けて韓国の戦時局外中立を宣言し、日本を除く主要国から承認の回答を得ていた(第Ⅰ章参照)。
 海軍大臣山本権兵衛の指揮下で、第三艦隊第七戦隊によって、二月六日に実行された韓国の鎮海湾と馬山電信局占領は、局外中立を宣言していた大韓帝国に対する明白な侵略戦争であり、開戦後いちはやくソウルを軍事占領した日本軍によって、二月二三日に韓国に不法に強要された日韓議定書によっても、決して合理化しえないものであった。よって今日に至るまで、用意周到に隠蔽されてきた。
 しかし事実が明らかになった以上、日露開戦二月八日説に潜む歴史の歪曲を正し、日露戦争が二月六日の韓国侵略から開始されたことが正しく認識されなければならない。

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