2月26日は「日朝修好条規」締結の日
【一日遅れの投稿】
148年前の昨日(1876年2月26日)は、大日本帝国が不平等条約・日朝修好条規(江華島条約)を朝鮮政府と締結した日である。
ペリー来航から23年後のことである。
※写真は「日本朝鮮国間修好条規/調印書」(外務省外交史料館蔵)
以下に、中塚明著『増補改訂版 これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』から、《不平等条約「日朝修好条規」の中身》を引用します。
[引用開始]
この江華島事件を理由として、日本政府はただちに朝鮮の「開国」、修好条約の締結を実現しようとしました。交渉にあたった日本の全権・黒田清隆も薩摩の人です。彼は一八七六年二月、六隻の軍艦をしたがえて仁川に上陸しました。二月一一日、この日「紀元節」を祝って撃ちはなつ日本軍艦の砲声がとどろきわたるなかで、修好条規の締結交渉がはじめられました。
(「紀元節」というのは、『日本書紀』で初代天皇とされる「神武天皇」が即位した日として、これを祝日とするため、明治になって新政府が一八七二〈明治五〉年に一月二九日と決め、翌年二月一一日に改めた日です。神話では「神武天皇」が即位したのは「一月一日」で、これを太陽暦に換算したとされますが、神話上の話を暦に換算することはできず、歴史的根拠はありません。)
一二日、日本側が条約案を示したときにも、黒田全権は回答を一〇日以内とかぎり、確答がなければ武力を行使するとほのめかしました。翌日には、万一、朝鮮側が条約案を承認しないときは、軍隊を仁川地方に上陸させるとおどかし、条約の早急な締結を迫ったのです。朝鮮政府ではさまざまな議論が出ましたが、結局日本の武力に屈し、二月二六日「修好条規」が調印されました。
第一条には、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権(権利)を保有せり」と書かれていましたが、これは日本政府が朝鮮と平等・対等な国交を開くことを約束したものではありません。当時、朝鮮を半ば属国とみなしていた清国(清朝の支配していた中国)の勢力を、朝鮮から排除することに主な目的があってのことでした。「朝鮮国は自主の邦」であるとわざわざ条約に明記したことが、後に日清戦争の開戦に重要な意味を持つことになります。
「日朝修好条規」は朝鮮側に一方的な不平等条約でした。「修好条規」やそれにつづいて結ばれた「修好条規付録」(同年八月調印)、「朝鮮国議定諸港における日本国人民貿易規則」、「修好条規付録に付属する往復文書」などを合わせて読んでみれば、日本政府が、どれほどひどい不平等を朝鮮におしつけたかがよくわかります(これらはすべて外務省編『日本外交年表竝主要文書・上』、一九五五年、に収録されています)。不平等の中身はいろいろありますが、特につぎの三つの点をあげておきます。
第一に、日本人の朝鮮開港場における治外法権を認めさせたこと。
第二に、日本の「諸貨幣」の朝鮮国内での流通を認めさせたこと。
第三に、朝鮮の関税自主権を認めないばかりか、日本との貿易に関してはいっさいの輸出入商品に関税をかけないと約束させたこと。
そのうえ、朝鮮にとって不平等きわまりないこの条約の有効期限すら明記せず、「永遠におよぼす」とされたのです。
日本が欧米諸国から不平等条約を結ばされてから、まだ二〇年もたっていませんでした。日本はその不平等条約によって、外国人が日本の法律にしばられない治外法権や、関税を独自に決める自主権がないことに苦しんでいました。にもかかわらず、それに輪をかけた不平等を朝鮮におしつけたのです。
朝鮮国内で流通を認めさせた「日本の諸貨幣」とは、日本の紙幣や補助貨幣のことです。それには紙幣をはじめ、銀貨(五〇銭・二〇銭・一〇銭・五銭)・銅貨(二銭・一銭・五厘)、はては寛永通宝(一厘銭)まであったのです(姜徳相「李氏朝鮮開港直後に於ける朝日貿易の展開」、『歴史学研究』二六五号、一九六二年、参照)。こうした日本通貨の流通と、他方での朝鮮産出の金の日本への流出は、朝鮮の近代的貨幣制度の確立を困難にする大きな原因になりました。
また、関税の自主権がないどころか、いっさいの関税をかけないことにしたのですから、日本商人は輸出品の価格を申告する必要はなく、日本商人の不正がまかり通ります。しかもどんな不正があっても、日本商人は治外法権で守られているという仕組みになっていたのです。
朝鮮の開国は、アメリカ、フランス、イギリスなどが、かねてから望んでいたことでした。だから日本政府が軍事的なおどかしで、ひどい内容の不平等条約をおしつけたところで、欧米の国々が反対する理由はどこにもありませんでした。日本はなお欧米諸国に圧迫されている国でありながら、早くも欧米諸国にさきがけて朝鮮を圧迫する国になったのです。
[引用終了]