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高橋哲哉「高野山のチョウ・ムンサン」

今日(2024年5月8日)の『朝日新聞』に「(忘れられた朝鮮人戦犯:上)歴史の隙間、取り残された 朝鮮名貫いた旧日本軍中将」の記事が掲載されています。

朝鮮人BC級戦犯は、大日本帝国の侵略戦争と植民地支配の責任を考える上で、後世の日本人にとって決して忘れてはならない存在です(参考:大島渚「忘れられた皇軍兵士」)。

以下に、哲学者の高橋哲哉さんがBC級戦犯としてシンガポールのチャンギー刑務所で処刑された趙文相(チョウ・ムンサン)についてのエッセイ(『責任について─日本を問う20年の対話所収。初出は『前夜』2006年冬号)を全文掲載します。

ぜひお読みください。

高野山のチョウ・ムンサン

高橋哲哉


 この夏、機会を得て、高野山奥の院を訪ねた。弘法大師の墓もさることながら、戦没者の追悼碑等がどのように建てられているのかに関心があった。

 「英霊殿」と呼ばれる巨大な建物の向かって右側。もっとも見たかったものに辿り着いた。「昭和殉難者法務死追悼碑」。

 聞きしに勝るとはこのことである。決して広いとは言えない空間に、供養塔、霊票(刻名碑)、追悼碑、地図掲示板等がびっしりと立ち並んで壮観だ。

 入り囗のところに大きな地図が掲げられている。「戦争受刑者死没地略図」だ。日本、中国、東南アジア、オーストラリアにわたる略地図の中に、イギリス、オランダ、フランス、中国、オーストラリア、フィリピン、アメリカ、連合国による戦犯裁判で受刑、死亡した人の人数が、その死没地と死の態様(刑死、病死、自決等)ごとに記されている。全体で刑死九百三十四、病死百四十二、事故死二十三、自決三十九、死因不明二十一、合計千百五十九名となっている。「連合国」によるものは、死没地巣鴨、刑死七、病死七、合計十四名。ほかでもない東京裁判(極東国際軍事裁判)と「A級戦犯」のことである。「昭和殉難者法務死追悼碑」とは、要するに、日本の敗戦後、連合国による戦犯裁判で処刑された人々の追悼碑なのである。

 資料によると、この追悼碑は一九九三年八月に前橋陸軍士官学校出身有志によって企画され、翌年五月に完成して、高野山真言宗管長を導師として除幕開眼法要が行なわれた。最初の追悼対象はその時点で「昭和殉難者」とされていた千六十八名であったが、その後明らかになった者を追加してきている。

 靖国神社への「A級戦犯」合祀は、首相の参拝に絡んで大問題になっている。ならば、この「昭和殉難者法務死追悼碑」は、それとどう違うのだろうか。

 靖国神社はかつて国家神道の一翼を担い、陸軍省・海軍省所管の「戦争神社」として発展した過去をもつ。一般戦没者と同じく「戦犯」をも英霊として顕彰しつづけている神社だ。他方、高野山は怨親平等思想をもつ仏教の聖地である。秀吉の朝鮮出兵後に薩摩藩主が建てた「高麗陣敵味方戦死者供養碑」もある。そのような場所で、純粋な「追悼」や「供養」の対象として弔うならば、「戦犯」であっても問題はないのではないか。

 しかも、報道によれば、この追悼碑は「日中友好の精神」の産物である。供養塔、追悼碑、霊票等の石材は中国産の金剛石、黒みかげで、彫刻や設計を含む一切が中国国営企業の手でなされた。もともと発起人が、和歌山県の友好都市である中国山東省の会社を訪問し、「戦犯者慰霊の趣旨を説明して、賛意を得て奉仕的な値で契約。大戦のおん念を超えた日中の「戦犯慰霊」の協力が実現した経緯がある」という(紀伊民報AGARA、二〇〇一年五月二十四日)。

 私は「追悼碑」の碑文に目を走らせた。興味深いものなので、少し長いが全文を引く。

 夫レ仁者ハ当ニ天下ノ憂イニ先立チテ憂エ天下ノ楽シミニ後レテ楽シム今此ニ弔慰ヲ捧ゲントスル山下奉文大将閣下及ビ壱千六十八柱ノ英魂ハ身夙ニ軍籍ニアリ只管国策ノ伸張ニ専念シ偏ニ国運ノ開拓ニ戮力セリ然レバ第二次世界大戦ノ勃発スルヤ身ヲ寒北ニ挺シテ砲煙弾雨ヲ凌ギ肝ヲ南溟ニ砕イテ屍山血河ヲ越ユ具ニ艱難ヲ嘗メテ従容莞爾唯国アルヲ知リテ我アルヲ知ラズ義アリヲ思ウテ身アルヲ忘ル蓋シ天ノ将ニ大任ヲ降サントスルヤ必ズ先ズ其ノ心志ヲ苦シメ其ノ筋骨ヲ労セシムレバナリ然ルニ何ゾ図ラン時運拙ナク国策ノ破綻ニ会シテ所期ノ目的ヲ果ス能ワズ功ハ敗戦ノ汚名ニ抹シ労ハ降伏ノ恥辱ニ包マレテ慰ムル能ワザリキ連合国礼ナク遂ニ名ヲ戦争犯罪裁判ニ借リテ冤罪ヲ刑場ニ誅セラル其ノ恨ム所真ニ万斛耳之ヲ聴クニ耐エズ心之ヲ偲ブニ堪エザリキ爾来光陰早クモ転ジテ半世紀ヲ閲ス日愈遠クシテ思愈滋ク思滋クシテ情更ニ濫ル怪々タル海潮ノ声ヲ聞イテハ魂魄ノ今ニ迷エルニハアラザルカヲ疑イ燦々タル天辺ノ星ヲ仰イデハ英霊ノ今ニ瞬ケルニハアラザルカヲ思ウ重ネテ其ノ功烈ノ平和安寧ノ風ニ蕩散シ日月忽忙ノ波ニ忘失セラレンコトヲ恨ム如カシ幽魂ヲ天地ノ外ニ慰ムルノ手段ヲ取ランニハ依ッテ我等高野山奥ノ院ニ追悼ノ碑ヲ建立シ弘法大師ノ照鑑ヲ仰イデ其ノ雄志ヲ紫明ノ山水ニ留メントス今ヤ諸士ノ憶念シ止マザリシ東亜ノ康寧人類ノ福利具現スルノ日至レリ以テ瞑スルニ足ルベシ仰ギ願ワクバ十方ノ諸仏此等ノ幽魂ヲ誘引シテ速ヤカニ無上ノ覚位ニ導キタマワンコトヲ
          平成六年   高野山真言宗宗務総長 新居祐政 撰

 ここに「高野山真言宗宗務総長」の名で語られているものが、靖国の場合とほぼ同一の英霊顕彰思想であることは否定できないだろう。

 ここに言う「壱千六十八柱ノ英魂」について、靖国神社の語りはこうだ。「戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に〝戦争犯罪人〟という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた千六十八人の方々──靖國神社ではこれらの方々を「昭和殉難者」とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています」(『やすくに大百科』靖国神社社務所発行)。同じ論理によって、山口県護国神社、愛媛県護国神社等には、地元出身の「昭和殉難者」を顕彰する碑がある。

 高野山真言宗宗務総長の語りにおいても、「A級」であれ「BC級」であれ、「戦犯」は、ひたすらもっぱら国家の発展に尽力し、国家のために自己を犠牲にした「英霊」である。彼らは「礼」を知らない連合国の一方的な裁判によって「冤罪」を負わされたにすぎず、その「功」ないし「功烈」は決して忘れられてはならない。このように、国家のために身命を捨てて尽した功績を褒めたたえる英霊顕彰が、「十方の諸仏」による救済や「追悼」と一体化している。ここには、靖国神社と同質の英霊顕彰を行なって戦争に協力してきた敗戦までの仏教教団の歴史が、反省なしにそのまま引き継がれてしまっているのではないか。

 たしかに、東京裁判やBC級戦犯裁判に問題がなかったわけではない。むしろ大ありだった。BC級戦犯裁判に冤罪が少なくなかったことも事実であろう。しかしだからといって、戦犯裁判のすべてを「冤罪」として受刑者全員を免責し、彼らが当時の「国策の伸張」と「国運の開拓」に尽したことをその「功」ないし「功烈」として讃えることは、つまるところ、戦争指導者の戦争責任と日本軍の戦争犯罪すべてを無化することに等しい。この点で、靖国神社の語りと高野山の追悼碑の語りとは軌を一にしている。そもそも「昭和殉難者法務死追悼碑」という名をもつかぎり、この碑は最初から靖国神社の立場(「昭和殉難者」)と、日本政府の立場(「法務死」)を、それぞれ何ほどか共有しているのだとも言えよう。

 「A級戦犯」、「BC級戦犯」というカテゴリーは、多くの問題を含んだ連合国の軍事裁判で用いられたものであるから、これを絶対化すべきではない。しかしだからといって、日本の戦争責任がなくなるわけでもなければ、日本軍の行なった戦争犯罪が犯罪でなくなるわけでもない。問題は、それらをより正確に認識し、自ら判断することである。

 仏教という宗教の立場にたてば、たとえ「A級戦犯」であっても、あるいは実際に戦争犯罪を犯していて冤罪ではなかった「BC級戦犯」であっても、すべて差別なく「追弔」し、「供養」することが可能であろう。しかし、「戦犯」を英霊としてその功績を讃えることは、国家の観点に立つことであって、純粋に仏教的な「追弔」や「供養」ではありえない。重要なことは、「追弔」や「供養」と「顕彰」を、また「追悼」と「顕彰」を混同しないことである。

 「昭和殉難者法務死霊票」と称する刻名碑を見ていて、私の目は、ある名前に釘づけになった。

 

趙文相。


 そう、NHKスペシャルの名作『チョウ・ムンサンの遺書──シンガポールBC級戦犯裁判』(一九九一年八月十五日放映)で知っていた、あの趙文相だ。名前の下には「陸軍属 英」と書いてある。沖縄県四名、奄美大島二名の次に、「朝鮮」として二十一名の名が挙がっているうちの後ろから二番目だった。「朝鮮」の次には「台湾」出身の該当者の名前がつづいている。

 チョウ・ムンサンは、ビルマの捕虜収容所で通訳をしていた日本陸軍軍属であった。日本の敗戦後、捕虜に対するリンチのかどでイギリス軍による裁判にかけられ、本人は強く否認したものの死刑の判決を受け、シンガポールのチャンギー刑務所で処刑された。

 「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」とする教えを受けた日本軍は、捕虜に対する非人道的行為を重ねた。連合軍捕虜たちがそうした日本軍に向けた激しい憎しみの前面に立たされたのが、捕虜監視員をさせられた朝鮮人軍属だった。「ビンタぐらいはした」かもしれない通訳のチョウ・ムンサンも、植民地から動員され、日本軍の戦争責任の肩代わりをさせられて処刑された一人だった。

 あのチョウ・ムンサンが高野山の「昭和殉難者法務死霊票」に刻名され、日本国家に尽した「功烈」によって「英霊」にされているとは!

 チョウ・ムンサンの「冤罪」は、本来ならば、彼をそうした場面に追いやった日本の責任を明らかにする方向で晴らされなければならないのに、ここでは逆に、もっぱら日本の責任を無化するために強調されている。チョウ・ムンサンの「冤罪」が晴らされるのは、日本の「冤罪」を晴らすためにすぎないのだ。

 そして私は、もう一つのことに気づいた。あのチョウ・ムンサンが、靖国神社に「護国の神」として合祀されているという事実である。

 高野山の追悼碑で最初の対象になった「壱千六十八柱」は、靖国神社が「昭和殉難者」として合祀した「千六十八人」にほかならない。この中に、「A級戦犯」東条英機元首相らとともに、チョウ・ムンサンら末端の朝鮮人・台湾人軍属が含まれているのは明らかだ。

 朝鮮のキリスト者であり、日本軍の戦争責任を肩代わりさせられたチョウ・ムンサンらが、いったいどうして、日本の戦争と植民地支配を今なお正当化しつづける英霊顕彰施設、靖国神社に祀られなければならないのか。考えるほどに眩暈がするような事態だ。

 チョウ・ムンサンは、二十六歳で刑場の露と消える無念さをにじませながら、遺書にこう書きつけていた(巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』、一九五三年)。

 たとへ霊魂でもこの世の何処かに漂い度い。それが出来なければ誰かの思ひ出の中にでも残りたい。

 チョウ・ムンサンの「霊魂」を、「靖国という檻」(菅原龍憲)から解放しなければならないのではないか。その他、遺族が同じく解放を望むすべての「霊魂」をも。


責任について
 ──日本を問う20年の対話


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