レート配布批判とミラミス批判とランクマ問題について書かれたノート

 


はじめに


 ツイッターのデュエプレ界隈でレート配布を公言したツイートに強い怒りを表明する人たちがいるのを見た。しかし私は何も怒りを感じなかったし、配布についての謝罪すら不要と考えた。ではなぜ私と批判者とのこのような齟齬が生じるのか。それを分析しておこうと思う。先取りすると、この事例はミラミス批判ともつながるものがある。後書きでも書くのだけれど、筆者はこの文章が何の役に立つのか、あまりわかっていない。デュエプレにおいて人脈の少ない筆者が書いた、怖いもの知らずの文章である。主張というものは具体的な誰かに説得的に提示できてはじめて意味を持つものだが、この文章を読んで自分の主張を変える人がいるのか、筆者には分からない。
なお、この文章の内容については全て筆者が責任を負い、他の誰も内容を公開前に事前に確認しておらず、執筆に際し私以外のデュエプレ関係者および無関係者の関与のないことを付記しておきます。

デュエプレが上手い人

 デュエプレが上手く、それを誇りとする人がいる。デュエプレが上手いということが価値の1つであることは言うまでもないであろう。ところで価値には2つの側面があり、1つは自分自身が感じるものとしてのものである。これは自分自身だけを問題とするものであるから、そもそも問題になること自体少ないであろう。問題は価値の、他人からそう思われている、誰かからの評価にかかわるという側面である。

デュエプレ内の小社会

 「界隈」という言葉が示すように、デュエプレユーザーもたくさんの数がいて、集団を作っている。デュエプレが上手い人は、その人が中心であるような小集団を作っていることがある。界隈の中心人物であり、いってみればリーダーのようなものである。彼は周囲から称賛を受けとる代わりにデュエプレに関する情報を提供するなどを行う。周囲も彼を褒め称える代わりに情報を受けとる。この相互関係が集団を成り立たせている。この小集団をなりたたせている価値は「デュエプレが上手いこと」である。リーダーはリーダーであるために、自分はデュエプレが上手いことを常に証明し続ける必要がある。上手くなければ、もはやリーダーは影響力や尊敬を失ってしまうからだ。

リーダーの条件①

 リーダーはリーダーで居続けるためにデュエプレが上手いことを常に証明し続ける必要があるが、そこには真正性がなければならない。デュエプレが上手いことはランクマッチのレートの高さによって示される。しかし、この高さが本物かどうか、よくAD1位がトス発覚によりアカウントBANされるという事件が起こっているが、それが疑われるようなものであれば、彼の価値には傷がついてしまい、周囲からの尊敬を勝ち取ることができなくなってしまう。よって、彼は、「デュエプレの上手さ」以外の理由によってレートが上がるようなことがあれば、それを非難しそれによって自分のレートの高さに真正性の保証を与えようとする動機を持つのである。トスやレート配布が炎上原因となる理由の1つはこれである。デュエプレの上手さによって集団の中心人物でありたい人ならばこれら行為を強い言葉で批難するであろう。

リーダーの条件②

 一方リーダーがリーダーたるために必要なことはもうひとつあり、それは集団の中で『「デュエプレが上手い」という価値が重要である』ことである。当然ながら、デュエプレが上手くなくていいと思っている集団の中では、デュエプレが上手いことは何の意味もない。よって、デュエプレが上手いという価値を基盤とする集団の中でリーダーや中心人物であろうとする人は、そこから尊敬や誇りなどを受けとるためにも、その価値の重要性、極端になると至高性、唯一性を宣伝する動機を持つのである。逆を言うと、この価値を否定するような行為に対しては厳しく対処することになる。レート配布という行為は、レートを高く保ち自分のデュエプレの上手さを周囲に示し続けることに意味があるという、デュエプレの上手さヒエラルキーの存在自体の否定、平たく言えば上手い人が偉いという価値観を毀損するものであるから、これもまた批判の原因となるものである。

レート配布批判の原因まとめ

 以上まとめると、レート配布が批判された原因は①「デュエプレの上手さ」以外の原因によるレート変動を起こしたこと②メタ的な価値である『「デュエプレの上手さ」は重要である』を毀損したことである。リーダーでない人物も、自分が集団に属していることの意味を守るためにこのような主張をしうることは付記してよいだろう。 これらを以下ミラミス批判とも関連づけて考察する。なお「私は一人で実力によるデュエプレの順位上げを楽しんでいたのに、それを邪魔されたから批判した」というような理由は通用しないと筆者は考える。ランクマッチ順位とは集団からの評価そのものであるからだ。

「デュエプレの上手さ」について

 筆者は「デュエプレの上手さ」という言葉を敢えて括弧つきで使い明快にに定義しなかったが、それはこの言葉が難しく意味も人によって異なるだろうからである。俗にいう「腕」「実力」「プレイング」などと同義語と考えるが、一応筆者なりの見解も書く。筆者はデュエプレで勝つにはA.デッキ構築、B.手札の巧みな使用、C.運が必要と考えていて、前2者を「デュエプレの上手さ」の構成要素と考える。自分の努力によって変えられるものと変えられないものの2種のうち、前者を実力と呼ぶ、と捉えてもらってもよい。これらABCのうちどれが最も重要なものか筆者は書かない。この判断は筆者の能力を大きく越えるからである。以下ではこれら3つの要素があるということだけから言えることを書き記す。

ミラミス批判との関連

 さてミラミスは先の要素について何が言えるカードか。このカードの中心はAデッキ構築とC運であってB手札の運用があまり関係しないと考える。ミラミスは手札に来てコストが払えればその時打てばよいカードであり、ゲーム中考えることが少ないと言われればその通りであるからだ。もっとも一枚で完結して考えることの少ないカードとは強いカードの条件であるとも筆者は考えるが、これは本筋から離れるので触れるにとどめる。問題はミラミスがAとCにまたがること、すなわち「デュエプレの上手さ」とそれに関わらない部分の両面をあわせもつということである。「デュエプレの上手さ」を重視する人から見たら、C.運 の要素ばかりが目立ち、①実力を示す値でなければならないレートを実力以外の要素によって変動させるものとして批判し、また②実力を重視しなければならないという価値観を犯すものとしても批判されることとなるのである。

ミラミス批判と界隈

 補足として、集団からの評価と個人という側面からミラミス批判という行為を分析しておく。ミラミスはC運のカードであるという認識が広く行き渡っており、ミラミスの否定と実力の重視は表裏一体の関係と言える。つまりツイッター(自称X)のような多くの人の見る領域においてミラミス批判をすることには自分は実力を重視する者、すなわち「デュエプレが上手い」人であるとアピールする効果があるのである。誰もデュエプレが下手であるとわざわざアピールしたい人間はいない以上、ミラミス批判が幅広い層で見られ、そして上位層すなわち上手い人にほど多く見られるのも当然である。一応付言すると、この主張は、ミラミスを批判する人は実力者と見られたいだけの人であるという内容では全くない。誰にも認められる実力を持ちかつミラミスを批判する人物のいることを筆者は知っている。筆者は実力がないので、ミラミスに負けても、運以外の要素で負けていないかどうか確認しなければならない程度の人間である。

 追加で、散見されるミラミス批判について書くと、「ミラミスは⚪⚪だ」型の主張は意見の1つとして捉えるが、「ミラミスを使う人は××だ」(××には罵倒語、差別のために用いられる言葉、暴力を助長するような言葉)は言ってはならない言葉だと、実際に散見されることを理由に主張しておく。

おまけ ランクマ最終日問題

 おまけとして、ランクマッチ最終日にレートが低い人間はランクマを遊ぶな、という主張も批判しておく。低い方にレート差が開いた相手に負けると大きくレートが下がるという事実がある以上、レートを伸ばしたい個人の願望としてだけ思うのは自由であり、自然でもあると思う。しかしマナーのようなものとして、多数のユーザーが守るべきルールであると考えているなら、それは断固として拒否したい。他人の遊び方にケチをつける権利は誰にもないからだ。さらにいうと、この主張にはおかしなところがまだあると思う。自分が今高いレートを保持しているとすると、それは自分より低いレートの相手を多く倒してきたからではないのだろうか。当然だが実力が拮抗してくると勝率は五分に近づいていき、勝ち越しを起こしにくい。逆に自分より低いレートの相手ほど勝ちやすくなっており、そこからたくさん勝ち越すことがレートを伸ばすことにつながるのである。自分がレートを勝ち取ってきた相手に対してランクマッチに参加するなと主張するのは変な話だと筆者は考える。強者であるならばレートの低い者を淡々と倒すのが義務であろう。さらにいうと、ランクマッチ高順位を目指す人のうちレートの低い人相手のいわゆる「運負け」が少なかった人は高レートを維持することが容易であると考えられるが、それが原因で最終に残った人がいたとしたら、実力者はそれを運だけとして批判するのだろうか。筆者はあまりないであろうと考える。十分に多くのランクマッチが行われていればこのような「運負け」は全員に均等に分布しているはずであって、高いレートを持つ人は「運負け」があるにも関わらず高勝率を出した「デュエプレが上手い」人と言えるからである。なので、ミラミスが環境に多くあるとしても、ランクマッチは十分に実力を反映したものになると筆者は考える。

まとめ デュエプレが下手な人

 この文章は、主にデュエプレが上手いと自認する人がどんな考えで、どんな集団で過ごしているかを想像と思考で書いたものである。もちろん、「私は周囲からひとかどの人間として認められるためにデュエプレをやっています」などと主張する人間はいないので、ただ上位で楽しんでいて熱心なだけのプレイヤーに水を差すとは何事だと批判されることと思う。ありうる無意識の心理機構とでも考えて欲しい。わざわざ書いていないが、、広くデュエプレユーザー全員が「デュエプレが上手いこと」を重要と思う界隈に属しているとかそうであるべきと考えているならそれは間違いで、価値観の一つとしての「デュエプレが上手い」への向き合い方は個人で異なりグラデーションを持つという当たり前のことについて、それが異なるからと言って突っかかることは良くないということが筆者の一番いいたいことである。もっとも人の遊び方にケチをつけて当然と考える人間は自分の遊び方だけが正しいと考えていて、周囲も「デュエプレが上手い人」またはそれを尊敬する人で満たされているであろう以上、彼らの考えは同調者に満たされていて、したがって筆者はこんな文章一つで誰かの考えが変わるなんて全く思わない。ただデュエプレが下手な人間が彼らの様子を見てどんなことを思っているか書き連ねて示しておくことになにか意味があればと思う。デュエプレ上手い人と下手な人どちらが優遇されるべきかなんて議論は絶対にしない。それは運営が考えるべきことでありまた考えているであろうことであり、全員がアプリを遊ぶのをやめる自由を持っている。デュエプレが上手くなくても別に人生は楽しめると一般的に言えると思う。もちろんデュエプレが上手いことに価値を見いだしそこに生きることを否定する気はない。何かの価値を奉じているからといって誰かを見下していい理由にはならないと書きたいだけである。


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